安藤直裕
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安藤直裕と妻の貞 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政4年11月8日(1821年12月2日) |
死没 | 明治18年(1885年)4月5日 |
別名 | 裕之進(通称)、竹堂、墨堂(号) |
戒名 | 藤寛院崇淳居士 |
墓所 | 多磨霊園 |
官位 | 従五位下・飛騨守 |
主君 | 徳川斉順、斉彊、明治天皇 |
藩 | 紀伊田辺藩主(御三家紀州藩附家老) |
氏族 | 安藤氏 |
父母 | 父:安藤直則 |
妻 | 戸田光庸七女貞 |
子 | 直行 |
安藤 直裕(あんどう なおひろ)は、江戸時代後期の紀伊国田辺藩16代・18代藩主。官位は従五位下・飛騨守。維新後は田辺藩知事。
略歴
[編集]14代藩主・安藤直則の次男として誕生した。初名を直承とも名乗る。竹堂、墨堂と号する。
文政9年(1826年)5月25日、家督を継ぐ。天保6年(1835年)12月27日、従五位下・飛騨守に叙任する。紀州藩において藩主・徳川慶福(のちの将軍徳川家茂)や徳川茂承などの補佐を務めた。慶応2年(1866年)、第二次長州征討では幕府軍の石州口の総督を務め、1080名を率いて出陣したが、弾薬を使い果たして江津まで退却した。同年12月3日、罷免、謹慎を命じられる。慶応3年(1867年)9月27日、謹慎を解かれる。
慶応4年(1868年)1月24日、維新立藩で独立の大名となった。同年5月5日、上洛する。明治2年(1869年)6月20日、田辺藩知事に就任する。明治4年(1871年)10月10日、藩知事の地位を長男の直行に譲って隠居したが、ほどなくして再任している。