安藤直清
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永10年11月11日(1633年12月11日) |
死没 | 元禄5年3月15日(1692年4月30日) |
改名 | 半兵衛(幼名)、直清 |
別名 | 彦兵衛(通称) |
墓所 |
和歌山県和歌山市の崇賢寺 愛知県岡崎市の妙源寺 |
官位 | 従五位下帯刀 |
主君 | 徳川頼宣、光貞 |
藩 | 紀州藩附家老(紀伊田辺藩主) |
氏族 | 安藤氏 |
父母 | 父:安藤直政、養父:安藤義門 |
兄弟 | 直清、直利 |
妻 | 正室:三浦為時次女理性院 |
子 | 直格、万三郎、直名、陳武、直達、女子三人 |
安藤 直清(あんどう なおきよ)は、江戸時代前期の紀伊国田辺藩4代藩主(紀州藩附家老)。通称は彦兵衛。官位は従五位下・帯刀。
生涯
[編集]寛永10年(1633年)11月11日、旗本・安藤直政(藩祖・安藤直次の長男・重能の娘婿)の長男として武蔵国にて誕生[1]。幼名は半兵衛。承応3年(1654年)7月21日、4代将軍・徳川家綱に拝謁し、先代の安藤義門の死去により同年11月11日に家督を相続する[2]。明暦元年(1655年)12月30日、従五位下、帯刀に叙任。
元禄5年(1692年)3月15日、紀伊で死去した。墓所は和歌山県和歌山市の崇賢寺[2]。跡を三男・直名が継いだ。