安藤次猷
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛延2年(1749年) |
死没 | 文政10年5月8日(1827年6月2日) |
改名 | 勝之助(幼名)、次猷、直時 |
戒名 | 藤寛院崇淳居士 |
墓所 | 愛知県岡崎市大和町の妙源寺 |
官位 | 従五位下・帯刀 |
主君 | 徳川治貞、治宝 |
藩 | 紀伊田辺藩主(御三家紀州藩附家老) |
氏族 | 安藤氏 |
父母 | 父:安藤信尹、養父:安藤寛長 |
兄弟 |
信成、次猷、信姿、上杉勝承継室、 中山直寛継室、西尾茂教継室ら |
妻 | 松平勝尹の娘・政 |
子 |
恒之助、安藤直與正室 養子:道紀 |
安藤 次猷(あんどう つぐのり)は、江戸時代中期から後期にかけての紀伊国田辺藩11代藩主。諱は後に直時(なおとき)と改名した。官位は従五位下・帯刀。
略歴
[編集]寛延2年(1749年)美濃国加納藩主・安藤信尹の三男として誕生した。
明和8年(1771年)3月12日に先代・安藤寛長が死去したため、同年7月11日に跡を継いだ。安永6年(1777年)6月に田辺城下で米騒動が起こり、天明6年(1786年)12月に米価高騰のために同月25日、28日の2回にわたって暴動が起こり、城戸の富豪4戸が破壊されるなど、治世は多難を極めた。
享和元年(1801年)5月9日に養子・道紀(徳川宗将の十男)に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)5月8日に79歳で死去した。