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松平勝尹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平勝尹
時代 江戸時代中期
生誕 正徳3年(1713年[1]
死没 明和5年3月26日1768年5月12日[1]
改名 勝延(初名)[2]→勝尹
別名 権七郎[2]→源三郎[3]
戒名 徳現院殿禅巌道悦大居士[3]
墓所 東京都豊島区巣鴨白泉寺
官位 従五位下玄蕃頭大蔵少輔豊前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
下総多古藩
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝久、養父:松平勝房
兄弟 松田定方妻[2]
正室:松平忠刻養女
勝全久松尹方飯河信門
本多忠興正室、政、脇坂安崇
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松平 勝尹(まつだいら かつただ)は、江戸時代中期の大名下総国多古藩3代藩主。官位従五位下玄蕃頭大蔵少輔豊前守。初名は勝延(かつのぶ)[2]

生涯

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正徳3年(1713年[3]、多古松平家分家で300石取りの旗本松平勝久(宇右衛門)の長男として誕生[3][2][注釈 1]享保6年(1721年)10月15日、9歳で将軍徳川吉宗御目見[3][2]。享保12年(1727年)2月2日、家督を継ぐ[2]。小普請組に属し、福島左兵衛の支配下であった[4]

享保14年(1729年)11月23日、本家の多古藩2代藩主・松平勝房の養子となり[3][2][注釈 2](これにともない300俵は収公される[2])、12月1日に徳川吉宗に拝謁[3]。享保21年(1736年)4月6日の養父の隠居で家督を継ぎ[3]元文元年12月16日(西暦では1737年1月)に従五位下・玄蕃頭に叙位・任官する[3]

元文2年(1737年)に日光祭礼奉行を務め、元文4年(1739年)・寛保2年(1742年)には日光祭礼奉行代を勤めた[4]

延享元年(1744年)11月6日に大蔵少輔に遷任する[3]。延享2年(1745年)2月9日に大番頭となり[3]、延享4年(1747年)5月2日に[3]病のため[4]辞職[3]。寛延2年(1749年)3月1日[3]、はじめて領地多古に入る半年間[4]の暇を得る[3]寛延4年(1751年)2月5日に豊前守に遷任する[3]

明和4年(1767年)1月28日、多古藩飛地領・下野国都賀郡西見野村(現在の栃木県鹿沼市見野)の長光寺境内で崖崩れがあり、万里小路藤房ゆかりの品と思しき銅鏡(柄鏡)、銅製の観音立像・銅塔や古銭が発見されるという出来事があったという[5]。このことは明和5年(1768年)1月29日付で領主松平豊前守(勝尹)から老中松平右近将監(武元)宛に報告がなされ、2月3日に出土品が老中列席の場に提出された[6][注釈 3]

明和5年(1768年)3月26日に死去した。享年56。跡を長男・勝全が継いだ。

系譜

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特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

脚注

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注釈

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  1. ^ 勝久は松平勝秀(宇右衛門)の子。勝秀は松平勝義の七男で、多古藩初代藩主松平勝以の実兄である。なお、勝義の四男・松平勝光の系統(500石)では、享保年間以後に勝忠(織部)・勝久(藤三郎)・勝秀(佐右衛門)と同族で同じ諱を持つ当主が続いている。
  2. ^ 勝房は松平勝以の子。血縁上は、勝房と勝久(勝尹の父)が従兄弟という関係である。
  3. ^ この出土品は、勝尹の死を挟んで5月に多古藩に返却され、さらに藩から長光寺(曹洞宗。かつては臨済宗に属していた)に返却された[6]。この地域には万里小路藤房の隠棲伝説があり、当時は藤房が妙心寺2世授翁宗弼と同一人物とする説もあったため、安永6年(1777年)に出土品は妙心寺に納められ、塔頭の天授院に伝わっている[6]。出土品を納めた厨子(「蓮池雲龍蒔絵厨子」)は蒔絵師飯塚桃葉が制作に携わったもので、美術的に注目され、制作時期などは議論となっている。もっとも、銅鏡の銘は偽銘であるとみなされ、他の出土品についても江戸時代に古物を寄せ集めて埋納したものという見解がある[7]
  4. ^ 忠刻の実妹にあたる。松平勘敬は旗本で、忠刻の実父[10]
  5. ^ 松平勝全・勝升の代の多古藩家老に「久松安兵衛」の名がある[11]

出典

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  1. ^ a b 松平勝尹”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.284、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.290。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.287。
  4. ^ a b c d 通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月15日閲覧。
  5. ^ 永島明子 2004, p. 82.
  6. ^ a b c 永島明子 2004, p. 83.
  7. ^ 永島明子 2004, pp. 82–83.
  8. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.281-282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』pp.287-288。
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.157
  10. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.169-170
  11. ^ 通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>六、藩士”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月15日閲覧。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
    • 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082717/150
  • 永島明子「作品紹介 初代飯塚桃葉の蒔絵作品(その2)妙心寺天授院蔵「蓮池雲龍蒔絵厨子」一基」『京都国立博物館学叢』第26号、2004年。 NAID 40006341257 

外部リンク

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