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松平勝全

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平勝全
時代 江戸時代中期
生誕 寛延3年10月27日1750年11月25日
死没 寛政8年2月3日1796年3月11日
別名 源三郎(通称)[1][2]
戒名 徳彰院殿維隣道栄大居士[3]
墓所 東京都豊島区巣鴨白泉寺
官位 従五位下豊前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
下総多古藩
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝尹、母:松平忠刻養女
兄弟 勝全久松尹方飯河信門
本多忠興正室、政、脇坂安崇
正室:松平信直
勝従勝升村上正方全好
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松平 勝全(まつだいら かつたけ[1][2])は、江戸時代中期の大名下総国多古藩4代藩主。官位従五位下豊前守

生涯

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寛延3年(1750年)10月27日[1]、3代藩主・松平勝尹の長男として誕生[1][2]明和5年(1768年)5月24日、父の死去により家督を継ぐ[2]。同年6月1日に徳川家治御目見[2]、同年12月18日に従五位下・豊前守に叙位・任官する[4]。明和6年(1769年)2月15日、はじめて領地に赴く暇を得る[3]

安永9年(1780年)に大坂加番に任じられ[5]寛政2年(1790年)3月から寛政5年(1793年)4月まで江戸城馬場先門番を務めた[要出典]。寛政6年(1794年)10月6日[3]、病気を理由に[5]家督を次男の勝升に譲って隠居する[3]。寛政8年(1796年)2月3日に死去した[3][1]。享年47[3][1]

系譜

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特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[4]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

脚注

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注釈

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  1. ^ 忠刻の実妹にあたる。松平勘敬は旗本で、忠刻の実父[7]

出典

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  1. ^ a b c d e f 松平勝全”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.287。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.288。
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.281-282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』pp.287-288。
  5. ^ a b 通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月15日閲覧。
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.157
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.169-170

参考文献

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外部リンク

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