久松勝慈
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久松勝慈 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 安政2年4月20日(1855年6月4日) |
死没 | 1904年(明治37年)11月2日 |
改名 | 松平勝慈→久松勝慈 |
別名 | 源三郎[1] |
戒名 | 徳本院殿勝慈海淑日允大居士[2] |
墓所 | 千葉県香取郡多古町南中の妙興寺 |
官位 | 従五位下・豊前守、子爵 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 下総多古藩知事 |
氏族 | 久松松平家康俊流→久松氏 |
父母 | 父:久松勝行 |
兄弟 | 勝慈、勝栄、勝定 ほか |
妻 | 松平頼縄長女・昌子 |
子 | 勝親 |
久松 勝慈(ひさまつ かつなり)は、下総国多古藩第8代(最後)の藩主(知藩事)。官位は従五位下・豊前守。
生涯
[編集]安政2年(1855年)4月20日、7代藩主・松平勝行の長男として誕生した。慶応4年/明治元年(1868年)正月より、御所台村(現在の多古町御所台)で私塾「
明治2年(1869年)8月に父が死去したため、10月に家督を継ぎ[1]、多古藩知事に任じられた[1]。明治4年(1871年)7月の廃藩置県により知藩事職を免じられ[1]、多古県知事に任命されるが、東京在住を命じられ[1][5][6]、政務は旧藩の大参事以下が仮に執ることとなった[5]。多古県は同年11月、第1次府県統合によって消滅し、新治県の管轄地域になった[6]。
1875年(明治8年)3月14日の公立多古学校(現在の多古町立多古第一小学校)創設に際しては旧藩庁を校舎として提供する[6]。1884年(明治17年)の華族令で子爵となる[1]。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い多古村が発足すると、初代村長となった[6]。多古村は明治24年(1891年)6月29日に町制を施行し多古町となるが[7]、勝慈は引き続き多古町長を務め、1897年(明治30年)3月まで在職し、[1][7]下総国山倉神社社掌[8]なども務める。
1904年(明治37年)11月2日に死去した。享年50。
栄典
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h “通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ “地域史編 旧中村>南中(みなみなか)>宗教/神社・寺院>正峰山妙興寺>松平(久松)家墓所”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月17日閲覧。
- ^ “地域史編 旧久賀(くが)村>御所台(ごしょだい)>教育文化・人物”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月17日閲覧。
- ^ “通史編 第四章>第六節 宗教と文化>四、教育・学問”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月17日閲覧。
- ^ a b “通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>九、明治維新の多古藩”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ a b c d “地域史編 旧多古町>多古町の誕生”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ a b “歴代町村長”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年3月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “久松勝慈 (初版[明治36(1903)年4月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2022年3月17日閲覧。
- ^ 『官報』第1828号「叙任及辞令」1889年8月2日。
- ^ a b c “久松勝親 (第4版[大正4(1915)年1月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年6月4日閲覧。
- ^ “久松勝親 (第8版[昭和3(1928)年7月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年6月4日閲覧。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (多古)久松家初代 1884年 - 1904年 |
次代 久松勝親 |