松平康載
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『武家華族名誉伝 下』 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永7年10月11日(1854年11月30日) |
死没 | 大正12年(1923年)9月30日 |
改名 | 錦之進(幼名)、松平康載、松井康載、戸田央、板倉央、板倉勝観 |
官位 | 従五位下・周防守、従五位、子爵 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 武蔵川越藩主(藩知事) |
氏族 | 戸田(松平)氏、松井(松平)氏、板倉氏 |
父母 |
父:松平光庸 養父:松平康英 |
兄弟 | 小笠原長国、光則、内藤政恒、戸田光芬、戸田光遠、野々山義比、康載、貞、孝ら |
妻 | 板倉花子 |
子 |
板倉勝央(板倉家を継ぐ) 養子:松井康義(松井家を継ぐ) |
松平 康載(まつだいら やすとし)は、武蔵国川越藩の第2代(最後)の藩主(知藩事)。松井松平家13代。のち同家を離れ、旧上野国安中藩主・板倉家を継いで板倉 勝観(いたくら かつみ)を名乗り、子爵となった。
略歴
[編集]嘉永7年(1854年)10月11日、信濃国松本藩の前藩主[注 1]松平光庸の九男として誕生した[1]。慶応4年(1868年)8月29日、川越藩主・松平康英(松井松平家)の養子となる。明治2年(1869年)4月10日、康英の隠居により家督を相続し、版籍奉還を願い出た。同年6月10日、従五位下・周防守に叙任される。同年6月25日、版籍奉還に伴い、川越藩知事に任じられた。藩政改革に着手し、また、康英の代に収公された2万石の返還がなったが、財政難を克服することは出来なかった。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で知藩事職を免官された。その後、松平姓から松井姓に改め松井康載を名乗る。明治12年(1879年)3月15日、隠居し、家督を養子の松井康義(先代・康英が隠居後にもうけた次男)に譲った。明治13年(1880年)4月14日、位記を返上し、実家の戸田家(こちらも松平姓から改めた)に戻った。実家に復籍後、戸田央と称した[1]。
明治19年(1886年)2月9日、板倉花子(上野安中藩主板倉勝殷の三女。前板倉勝任夫人)と結婚し、板倉家に入籍する。同年4月6日、板倉家の家督を相続する[1][2]。同年4月9日、板倉勝観と改名する[3]。板倉家は花子が女戸主のため、叙爵が遅れていたが、同年4月10日に従五位に、同年4月24日に子爵に叙せられた[注 2]。
栄典
[編集]系譜
[編集]父母
夫人
子女
養子
- 松井康義 - 松平康英の次男
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (安中)板倉家初代 1886年 - 1923年 |
次代 板倉勝央 |
当主 | ||
先代 板倉花子 |
旧安中藩板倉家 板倉勝観 1886年 - 1923年 |
次代 板倉勝央 |
先代 松平康英 |
松井松平家 13代 松平康載/松井康載 1869年 - 1879年 |
次代 松井康義 |