板倉勝己
表示
板倉勝己 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永4年3月21日(1851年4月22日) |
死没 | 大正13年(1924年)11月20日) |
別名 | 勝尚 |
官位 | 従五位下・甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜 |
藩 | 陸奥福島藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 板倉勝顕、野村氏 |
兄弟 | 勝己、勝英、酒井忠経正室ら |
妻 |
岡部長寛娘・簾子 渡辺当忠娘 |
子 | 養子:勝達 |
板倉 勝己(いたくら かつみ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国福島藩11代藩主。諱は勝尚(かつひさ)ともいう。官位は従五位下・甲斐守。重昌流板倉家第14代。
略歴
[編集]先代藩主・板倉勝顕の長男。母は側室の野村氏。正室は岡部長寛の娘・簾子、継室は渡辺当忠の娘。
慶応2年(1866年)5月2日、父・勝顕の隠居により家督を相続した。幕府から江戸市中取り締まりを命じられた。慶応4年(1868年)3月1日、重臣渋川教之助(後の板倉勝達)を上洛させて、新政府へ恭順の姿勢を示した。新政府の命令により、藩主勝己は江戸から福島に戻り、会津征討の準備に入った。奥羽鎮撫総督参謀・少将醍醐忠敬を受け入れて、奥羽軍事局を設置した。しかし、奥羽越列藩同盟の結成に伴い、佐幕派に転じることになった。閏4月20日、世良修蔵暗殺に福島藩士も加わった。
明治元年(1868年)7月29日、新政府軍による二本松城の攻略をうけて、福島城を開城し、米沢に避難した。同年9月15日、父・勝顕と共に新政府に降伏した。同年9月20日、城下での謹慎を命じられる。10月、東京に移り謹慎した。同年12月7日、新政府から隠居を命じられる。同年12月18日、板倉勝定(11代勝長の次男)の長男の勝達が家督を相続した。明治2年(1869年)9月28日、御咎隠居を赦される。大正13年(1924年)に死去した。
系譜
[編集]父母
- 板倉勝顕(父)
- 野村氏(母) - 側室
正室、継室
養子