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醍醐忠敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
醍醐 忠敬
醍醐 忠敬
時代 江戸時代後期 - 明治時代後期
生誕 嘉永2年10月4日1849年11月18日
死没 明治32年(1899年5月23日
官位 従三位
主君 明治天皇
氏族 醍醐家
父母 父:醍醐忠順
兄弟 忠告忠敬一条忠貞忠直、好子、親子、輝子
為子、忠重、信子、静子
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醍醐 忠敬(だいご ただゆき)は、江戸時代後期の公家権大納言醍醐忠順の次男。官位従三位。維新後は留守権判官、元老院議官錦鶏間祗候

経歴

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晩年の忠敬

戊辰戦争の際には奥羽鎮撫副総督として各地を転戦。この功により永世賞典禄六百石を下賜され従三位に叙された。明治期には留守権判官、元老院議官を歴任した。明治23年(1890年)10月20日、元老院が廃止され非職となり[1]錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]

兄・忠告が病弱であったため、弟の忠敬の方が家督継承者として相応しいとみられた。そして忠敬が醍醐家の家計を握ると、忠告に対しては僅かな金銭を送るだけとなり、忠告は草履の鼻緒を縫う内職[3]で日銭を稼ぐような境遇に陥った。明治29年(1896年)6月23日に忠告が亡くなると、忠敬が正式に襲爵者となった。この後、同居していた忠告の長男・格太郎を更に冷遇するようになり、明治32年(1899年)3月に格太郎は麹町の醍醐邸を出て、乳母の息子の家に厄介になった。格太郎は高利貸しに借りた金がこの時点で400円に膨らんでいたが、侯爵である醍醐家にも政府からの賜金は議会開会時の1000円を除いて無く、裕福と言えない状態であったため、格太郎に工面してやる余裕は無かった[4]

同年5月23日午後7時、父・忠順の邸宅で忠敬が四条隆平と談笑していた際、侵入した格太郎に頭部と頸部を拳銃で一発ずつ撃たれて死亡した。長女の為子も重傷を負った。格太郎は四条によって取り押さえられ、通報を受けた警察によって逮捕された[5]。12月28日、格太郎に対しては無期徒刑(無期懲役)の判決が下された[6]

この事件は当時の一大スキャンダルとなり、一時醍醐家は没落した。家督は父・忠順が再度継ぎ、為子の弟・忠重は公卿摂家の一条家に引取られて養育された。

系譜

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醍醐家

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醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。

皇室との関係

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後陽成天皇の男系八世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

家族

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栄典

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脚注

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  1. ^ 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』283頁。
  2. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  3. ^ 『明治・大正・昭和 華族事件録』20頁
  4. ^ 『明治・大正・昭和 華族事件録』15-16頁
  5. ^ 『明治・大正・昭和 華族事件録』17頁
  6. ^ 『明治・大正・昭和 華族事件録』30頁
  7. ^ 官報』第610号「賞勲叙任」1885年(明治18年)7月14日。
  8. ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年(明治22年)12月18日。

参考文献

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外部リンク

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