小倉英季
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小倉 英季(おぐら ひですえ、1872年12月5日(明治5年11月5日[1])- 1929年(昭和4年)10月22日[1])は、日本の陸軍軍人・政治家。華族。陸軍歩兵大佐。貴族院子爵議員。旧名・英麿[1]。
経歴
[編集]本籍東京都[2]。侍従・小倉長季の二男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1881年(明治14年)9月29日、家督を継承[1]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[4]。1893年(明治26年)1月18日に英季と改名した[5]
1895年(明治28年)1月1日、陸軍士官学校(6期)を卒業し、同年5月22日、歩兵少尉に任官[6]。日清戦争、日露戦争に出征[3]。占領地総督部花河兵站守備隊長兼兵站司令官、第1師管軍法会議判士長、近衛歩兵第2連隊大隊長、高崎連隊区司令官などを務め[2]、1918年(大正7年)7月24日、歩兵大佐に昇進[7]。その後、歩兵第31連隊長に就任し、1921年(大正10年)7月20日に待命となり[8]、同年11月1日、予備役に編入された[2][9]。
1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[10][11]、研究会に属して活動し死去するまで在任した[2][12]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
親族
[編集]- 妻:小倉定子(さだこ、阿野実允長女)・小倉為子(ためこ、醍醐忠敬長女)[1]
- 長男:小倉義季(子爵、殿掌)[1]
- 二女:俊子(としこ、北大路信明夫人)[1]
- 三女:一条智光(一条実輝養子)[1]
- 四男:大宮公孝(大宮以季養子)[1]
- 弟:西四辻公堯(陸軍少将、貴族院子爵議員)[1]
- 叔母:小倉文子(明治天皇の典侍)[16]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『平成新修旧華族家系大成 上巻』376-377頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』38頁。
- ^ a b 『人事興信録 第8版』オ18頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第2865号、明治26年1月19日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』118頁。『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』94頁。
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』94頁。
- ^ 『官報』第2692号、大正10年7月21日。
- ^ 『陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿 大正12年4月1日調』61頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、33頁。
- ^ 『官報』第3869号、大正14年7月16日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、37頁。
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
- ^ 『官報』第21号「叙任及辞令」1927年1月25日。
- ^ 『官報』第822号「叙任及辞令」1915年5月1日。
- ^ 小倉英季『人事興信録 第8版』 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
[編集]- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』陸軍省等、1920年。
- 陸軍省編『陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿 大正12年4月1日調』偕行社、1923年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 小倉家初代 1884年 - 1929年 |
次代 小倉義季 |