西四辻公堯
表示
西四辻 公堯(公尭、にしよつつじ きみたか[1] / きんたか[2]、1878年(明治11年)8月9日[1] - 1943年(昭和18年)1月14日[1][2])は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍少将。貴族院子爵議員。旧姓・小倉、旧名・祐三郎[1]。
経歴
[編集]侍従・小倉長季の三男として生まれ、西四辻公照の養子となる[1][3]。養父の死去に伴い家督を相続し、1910年(明治43年)5月3日、子爵を襲爵した[1][4]。1914年(大正3年)1月30日、公堯と改名[5]。
1899年(明治32年)11月21日、陸軍士官学校(11期)を卒業[6][7][8]。1900年(明治33年)6月22日、陸軍歩兵少尉に任官[2][6]。以後、歩兵第9連隊補充大隊副官、後備歩兵第4旅団副官、歩兵第6連隊中隊長、歩兵第1連隊中隊長、後備歩兵第38連隊中隊長、本郷連隊区司令部員、歩兵第60連隊大隊長、歩兵第76連隊大隊長、朝鮮軍司令部附などを歴任[2][3]。1929年(昭和4年)8月1日、陸軍少将に進み待命となり[7][9]、同月31日、予備役に編入された[10]。
1932年(昭和7年)7月10日、貴族院子爵議員に当選し[11][12]、研究会に所属して活動し1941年(昭和16年)12月1日に辞職した[2][13][14]。
栄典
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成 下巻』325-326頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』50-51頁。
- ^ a b 『人事興信録 第13版 下』ニ59頁。
- ^ 『官報』第8057号、明治43年5月4日。
- ^ 『官報』第454号、大正3年2月4日。読みは「キンタカ」。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156頁。
- ^ a b 『日本陸軍将官辞典』555頁。
- ^ 『陸軍士官学校』232頁。
- ^ 『官報』第778号、昭和4年8月2日。
- ^ 『官報』第804号、昭和4年9月2日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、40頁。
- ^ 『官報』第1664号、昭和7年7月18日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、50頁。
- ^ 『官報』第4473号、昭和16年12月4日。
- ^ 『官報』第842号「叙任及辞令」1929年10月19日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成 上巻』376頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上下巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 西四辻公照 |
子爵 西四辻家第3代 1910年 - 1943年 |
次代 西四辻公順 |