醍醐輝弘
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年4月27日(1791年5月29日) |
死没 | 安政6年9月9日(1859年10月4日) |
官位 | 従一位、内大臣 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 醍醐家 |
父母 | 父:醍醐輝久、母:蜂須賀幸子 |
兄弟 | 輝弘、隆生、信子 |
妻 |
正室:蜂須賀宗子 継室:鷹司辰子(鷹司政煕の娘) |
子 | 忠善、忠順 |
醍醐 輝弘(だいご てるひろ)は、江戸時代後期の公卿、廷臣。醍醐家第七代並びに第九代当主。
概要
[編集]光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位・内大臣まで昇った。
生涯
[編集]形式上、本家である一条家の猶子となっていたが、寛政5年(1793年)に叙爵、実家の家督を相続する。以降父同様に清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛権少将・左近衛権中将を経て、寛政12年(1800年)に従三位に達して公卿に列する。その後、踏歌節会外弁・権中納言を経て、文化12年(1815年)に権大納言となる。
1819年、長男の忠善が生まれ家督も譲るが、翌年に死亡。再度当主となるが、1830年に次男の忠順が誕生し、翌年これに家督を譲った。
幼少の当主忠順を補佐する一方で、輝弘自身もその後長らく昇格しなかったが、天保11年(1840年)には踏歌節会内弁に就任し、弘化4年(1846年)に内大臣・右近衛大将・右馬寮御監に任命された。嘉永元年(1848年)すべての官職を辞した。嘉永2年(1849年)に従一位を授与された。1859年に亡くなった。
家族・親族
[編集]- 父:醍醐輝久
- 母:蜂須賀幸子(蜂須賀重喜の娘)
- 正室:蜂須賀宗子(蜂須賀至央の養女)(実父は至央の甥、蜂須賀休光)
- 男子:醍醐忠善(1819-1820)
- 妻:鷹司辰子(准三宮鷹司政煕の娘)
- 男子:醍醐忠順(1830-1900)
- 四女・栄子(しげこ、1824-1889、生母不明) - 鷹司政通猶子高千穂教有(鷹司通綱)の妻[1]
系譜
[編集]醍醐家
[編集]醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
→詳細は「醍醐家」を参照
皇室との関係
[編集]後陽成天皇の男系六世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
脚注
[編集]- ^ 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929, p366