一柳直増
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 承応3年4月26日(1654年6月11日) |
死没 | 享保12年9月5日(1727年10月19日) |
別名 | 権之丞[1][2] |
戒名 | 本源院殿秋月宗開禅定門[2] |
墓所 | 東京都港区の金地院[2] |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳直照 |
兄弟 | 直増、土屋朝直室 |
妻 |
正室:三枝守全の娘[1] 継室:杉浦正綱の娘[1] |
子 | 一柳直治養女(松浦正職室[3])、直長、荘五郎、湊増海[注釈 1]、直朝 |
一柳 直増(ひとつやなぎ なおます)は、江戸時代前期の旗本(寄合旗本)。伊予国にあった5000石余の知行地を播磨国美嚢郡に移された。以後一柳家は、高木陣屋(現在の兵庫県三木市別所町高木)を居所とする領主として幕末まで続く。
生涯
[編集]承応3年(1654年)4月26日生まれ[2]。父の一柳直照は、伊予国宇摩郡津根村の八日市陣屋(現在の愛媛県四国中央市土居町津根)を居所として5000石余を知行していた。寛文7年(1667年)、父の死により14歳で遺領を継ぎ、旗本寄合席に列する[1]。寛文8年(16678年)、はじめて徳川家綱に拝謁[1]。
元禄16年(1703年)10月25日、伊予国にあった知行地が収公され[注釈 2]、替地が播磨国美嚢郡に与えられる[1]。伊予国の知行地収公に関しては、別子銅山の産銅運搬路・薪炭補給地を幕府領として確保するという目的があった(川之江代官所参照)[8]。直増は三木近郊の高木村に高木陣屋を置き、15か村5250石を領した[9]。
宝永元年(1704年)12月致仕し、嗣子一柳直長に家督を譲る[1]。享保12年(1727年)9月5日死去[1][2]。享年74[1][2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.157、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
- ^ a b c d e f 一柳貞吉 1933, p. 35.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.161、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.161。
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 38.
- ^ “二 宇摩郡の天領”. 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行). 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月12日閲覧。
- ^ “天領”. 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行). 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月12日閲覧。
- ^ a b “永隆院〔お作さん〕(1702~1781)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月12日閲覧。
- ^ “住友の別子銅山経営/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 31.
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百三
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。