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一柳直増

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳 直増
時代 江戸時代前期
生誕 承応3年4月26日(1654年6月11日)
死没 享保12年9月5日(1727年10月19日)
別名 権之丞[1][2]
戒名 本源院殿秋月宗開禅定門[2]
墓所 東京都港区の金地院[2]
幕府 江戸幕府
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直照
兄弟 直増土屋朝直
正室:三枝守全の娘[1]
継室:杉浦正綱の娘[1]
一柳直治養女(松浦正職[3])、直長、荘五郎、湊増海[注釈 1]、直朝
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一柳 直増(ひとつやなぎ なおます)は、江戸時代前期の旗本(寄合旗本)。伊予国にあった5000石余の知行地を播磨国美嚢郡に移された。以後一柳家は、高木陣屋(現在の兵庫県三木市別所町高木)を居所とする領主として幕末まで続く。

生涯

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承応3年(1654年)4月26日生まれ[2]。父の一柳直照は、伊予国宇摩郡津根村の八日市陣屋(現在の愛媛県四国中央市土居町津根)を居所として5000石余を知行していた。寛文7年(1667年)、父の死により14歳で遺領を継ぎ、旗本寄合席に列する[1]。寛文8年(16678年)、はじめて徳川家綱に拝謁[1]

元禄16年(1703年)10月25日、伊予国にあった知行地が収公され[注釈 2]、替地が播磨国美嚢郡に与えられる[1]。伊予国の知行地収公に関しては、別子銅山の産銅運搬路・薪炭補給地を幕府領として確保するという目的があった(川之江代官所参照)[8]。直増は三木近郊の高木村に高木陣屋を置き、15か村5250石を領した[9]

宝永元年(1704年)12月致仕し、嗣子一柳直長に家督を譲る[1]。享保12年(1727年)9月5日死去[1][2]。享年74[1][2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 昭和初期に一柳家の顕彰を行った一柳貞吉は増海の末裔に当たるという[4]
  2. ^ 伊予国の旧領は幕府領となったあと、津根村などは西条藩松平家に移管された[5][6]。正徳4年(1714年)、領内巡察に来た新領主・西条藩主松平頼致(のちの紀州藩第6代藩主徳川宗直)が津根村八日市で休息した折に「お作」という娘を見初めて側室とした(のちの永隆院)という話が伝わり[7]、彼女が紀州藩第7代藩主徳川宗将の生母になったことから、八日市陣屋跡にはその記念碑等がある[7]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.157、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
  2. ^ a b c d e f 一柳貞吉 1933, p. 35.
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.161、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.161。
  4. ^ 一柳貞吉 1933, p. 38.
  5. ^ 二 宇摩郡の天領”. 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行). 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月12日閲覧。
  6. ^ 天領”. 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行). 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月12日閲覧。
  7. ^ a b 永隆院〔お作さん〕(1702~1781)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月12日閲覧。
  8. ^ 住友の別子銅山経営/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
  9. ^ 一柳貞吉 1933, p. 31.

参考文献

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