三枝守全
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三枝 守全(さいぐさ もりあきら、慶長15年(1610年) - 延宝8年5月26日(1680年6月22日))は、江戸時代の旗本。父は三枝守昌、母は信濃国諏訪高島藩主諏訪頼水の娘[1]。初名は守勝、通称は源八郎、内匠。官位は従五位下、能登守、隠岐守。法名は全心[1]。正室は和泉国陶器藩主小出三尹の娘であり、その間に嫡男の三枝守輝がいる。他に小出守里(京都町奉行[2])、三枝守仍(もりなお)、娘(一柳直増室)、他女子2人がいる[1]。
生涯
[編集]元和6年(1620年)、11歳の時に初めて徳川秀忠に御目見した[1]。
寛永17年(1640年)、安房三枝藩の家督を相続する際、3千石を弟の諏訪頼増に分知して7千石を知行した[1]。これにより三枝家は再度、大名から旗本となった。
正保3年(1646年)、命令を受けて崇源院の霊廟の普請の奉行を務め、慶安2年(1649年)には日光東照宮の普請の奉行を務めて黄金[要曖昧さ回避]5枚を賜った[1]。慶安3年(1650年)の時に御書院番頭となり、慶安4年(1651年)に従五位下能登守に叙された[1]。明暦元年(1655年)には領地を改められて7000石を賜った。万治2年(1659年)正月、徳川家綱が元服したことを受けて、使者として尾張国名古屋まで赴いた[1]。寛文3年(1663年)、家綱が日光山に参拝した際はこれに付き添った。延宝4年(1676年)に職を辞職して旗本寄合席に列し、その後に致仕した[1]。
延宝8年(1680年)死去、享年71[1]。実子の三枝守輝が跡を継いだ[1]。
参考
[編集]- 「寛政重脩諸家譜. 第6輯」(1923年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 「寛政重脩諸家譜. 第6輯」による。本文は1004頁、コマ番号は511頁。
- ^ 村田路人「元禄期における伏見・堺両奉行の一時廃止と幕府の遠国奉行政策」『大阪大学大学院文学研究科紀要』第43号、大阪大学大学院文学研究科、2003年3月、1-25頁、doi:10.18910/10580、ISSN 1345-3548、NAID 120004844768。