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丁文盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

丁文盛 (仮名:テイ ブンセイ, 拼音:Dīng Wénchéng[1]) は明末清初の官吏。

兵部漢啓心郎の第一号とされる。[2]広寧 (現遼寧省錦州市一帯) の人。[2]

略歴

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明朝諸生であったが、天命6年に太祖ヌルハチに帰順し、天聡年間には太宗ホンタイジにより兵部啓心郎に任命された。[注 1][2][3]

天聡7年 (1633)

崇徳3年 (1638)

順治元年 (1644)

順治2年 (1645)

  • 旧暦6月:登萊道参政から都察院右僉都御史に昇任、山東巡撫を兼任、営田軍務督理を兼務。[5]
  • 濰県 (現山東省濰坊市濰城区) の盗賊・張広が叛乱を起し、数千人が萊州 (現山東省煙台市一帯) を襲撃した。丁文盛は游撃・馮武郷らに征討を命じ、三埠不詳、紅山口不詳転戦の末、一味の尼思斉、趙明春を斬伐した。張広が平度州 (現山東省青島市平度市) に逃亡すると、游撃・楊遇明に追撃させ、徐里疃で張広を射殺し、徒党を殲滅した。[2]

順治3年 (1646)

順治4年 (1647)

  • 旧暦4月:山東の土賊が鄒平 (現山東省浜州市鄒平市)、禹城 (現山東省徳州市禹城市) など15の州県を陥落させた。丁文盛は鎮圧に失敗し、更に上奏も遅れ、一級降格の処分を受けた。[6]更に同年9月、山東巡撫から河南布政使司参議に降任となり、僉事を兼任、按察使事務管理 (取締) を兼務した。[7]

順治6年 (1649)

  • 旧暦5月:河南参議兼按察使事務管理から福建布政使司左布政使に転任。[8]

順治7年 (1650)

  • 不詳:死歿。[2]

子孫

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  • 子・丁思孔[9]

脚註

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註釈

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  1. ^ 参考:『清實錄』中では崇徳3年に啓心郎就任とされている。

典拠

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  1. ^ a b 丁文盛”. 人名権威. 2024年4月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f “丁文盛”. 清史稿. 239. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷239#丁文盛 
  3. ^ “崇德3年7月25日段2348”. 太宗文皇帝實錄. 42. - 
  4. ^ “順治1年7月19日段3342”. 世祖章皇帝實錄. 6. - 
  5. ^ “順治2年6月4日段3608”. 世祖章皇帝實錄. 17. - 
  6. ^ “順治4年4月26日段4135”. 世祖章皇帝實錄. 31. - 
  7. ^ “順治4年9月21日段4248”. 世祖章皇帝實錄. 34. - 
  8. ^ “順治6年5月9日段4663”. 世祖章皇帝實錄. 44. - 
  9. ^ “文盛子思孔”. 清史稿. 239. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷239#子_思孔 

典拠

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関聯

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