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丁鑑修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丁鑑修
『満洲建国十年史』(1942年)
プロフィール
出生: 1886年光緒12年)
死去: 1943年康徳10年)8月14日[1]
満州国新京特別市
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府蓋平県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 丁鑒修
簡体字 丁鉴修
拼音 Dīng Jiànxiū
ラテン字 Ting Chien-hsiu
和名表記: てい かんしゅう
発音転記: ディン ジエンシウ
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丁 鑑修(てい かんしゅう)は中華民国満州国の政治家。北京政府奉天派に属し、後に満州国の要人となった。斡元[2]

事績

[編集]

光緒年間に日本へ留学し、1910年宣統2年・明治43年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[3]。帰国後、政法科挙人となり、郵伝部七品京官に任命されている。さらに奉天省において、師範学堂、法律学校、陸軍学校、警察学校など各種学校で教習(教官)をつとめた。

中華民国成立後の1913年民国2年)、奉天交渉司日語科科員に任ぜられる。1915年(民国4年)、奉天巡按使署外交科長に任ぜられた。以後、東三省陸軍司令部外交処処長、奉天省省長公署諮議、中日合弁弓長鉄嶺鉱公司総弁、遼陽天利煤鉄公司総弁を歴任している。

1928年民国17年)6月、張作霖が爆殺されると、丁鑑修は袁金鎧とともに臨時委員会を組織し、奉天の治安を保持した。1931年(民国20年)9月、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、丁鑑修は関東軍の支持により奉天地方自治維持委員会を組織した。翌月には東北交通委員会委員長に就任している。

1932年大同元年)3月9日、満州国が正式に成立すると、翌10日、丁鑑修は交通部総長に任命された[4]1933年大同2年)3月、立法院憲法制度調査委員会委員を兼任する。5月には、国道会議副議長も兼ねた。翌年3月、交通部が改組されたが、引き続き交通部大臣に留まる。1935年康徳2年)5月21日、実業部大臣に転じた[5]1937年(康徳4年)5月7日、大臣を含む各職を辞任した[6]

1940年(康徳7年)5月、参議府参議となる。翌年4月に満州国建国十周年祝典委員会委員をつとめた。1942年(康徳9年)12月、建国神廟造営籌備委員会委員となる。

1943年(康徳10年)8月14日、喘息療養中のところ新京の自宅で死去。享年58。[1]

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  1. ^ a b 「前参議丁鑑脩氏逝去」『同盟時事月報』7巻8号通号207号(昭和18年8月号)、83頁による。東北人物大辞典編委会編は1944年死去、徐主編は1942年12月死去としているが、いずれも誤り。
  2. ^ 『東北人物大辞典』による。『民国人物大辞典 増訂版』は幹元とする。
  3. ^ 早稲田大学校友会(1934)、478頁。
  4. ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
  5. ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
  6. ^ 「満州国内閣改造きょう発表、六大官勇退」『東京朝日新聞』1937年5月8日夕刊。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 東北人物大辞典編委会編『東北人物大辞典』遼寧人民出版社、1992年。ISBN 7205016223 
  • 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。 
  満州国
先代
(創設)
交通総長
1932年3月 - 1934年3月
次代
(交通大臣に改組)
先代
(交通総長から改組)
交通大臣
1934年3月 - 1935年3月
次代
李紹庚
先代
張燕卿
実業大臣
1935年5月 - 1937年5月
次代
呂栄寰