李紹庚
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李紹庚 | |
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『満洲建国十年史』(1943年) | |
プロフィール | |
出生: | 1896年(清光緒22年) |
死去: |
1946年(民国35年)12月23日 中華民国南京市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府遼陽州 |
職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 李紹庚 |
簡体字: | 李绍庚 |
拼音: | Lǐ Shàogēng |
ラテン字: | Li Shao-keng |
和名表記: | り しょうこう |
発音転記: | りー シャオゴン |
李 紹庚(り しょうこう、1896年 - 1946年12月23日)は中華民国・満洲国の政治家・外交官。奉天派の政治家で、後に満州国で要人となった。
事績
[編集]1920年(民国9年)、ハルビン俄立高等商業学校を卒業する。その後、浜江道尹公署外交科長に就任した。1924年(民国13年)、東省特別区市政管理局副局長となる。1926年(民国15年)、東省特別区教育庁庁長となった。翌年3月から9月まで、駐ウラジオストク総領事署理をつとめている。1931年(民国20年)、中東鉄路理事長代理となった。
満州国成立後、李紹庚は中東鉄路督弁公署督弁代理、北満鉄路督弁兼理事長を歴任した。1935年(康徳2年)5月21日、交通部大臣に就任し[1]、1940年(康徳7年)12月6日、阮振鐸と入れ替わりで駐日大使を命ぜられた[2]。1942年(康徳9年)9月28日、外交部大臣に就任し[3]、1944年(康徳11年)12月16日、南京国民政府(汪兆銘政権)に対する駐華大使へ転じた[4]。
満州国滅亡後、李紹庚は南京において蔣介石の国民政府により漢奸として逮捕された[5]。李紹庚は首都高等法院で審理されたが、通常の漢奸処理条例よりは緩い「東北各省市漢奸案件処理条例」が適用されたため、1946年(民国35年)11月11日に懲役5年という比較的軽い判決が下された。しかし、刑が軽すぎると見た検察側は抗告の準備をする[6][7]。
その最中、南京で収監中の李紹庚は膀胱炎を発症し、まもなく重症化する。同年12月23日に中央医院で病没した[6]。享年51。
注
[編集]- ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
- ^ 「駐日満大使異動 李交通部大臣と入代り」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)12月7日夕刊。
- ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日。
- ^ 「満州国大臣級異動」『朝日新聞』昭和19年(1944年)12月17日。
- ^ 黒竜江省図書館特設ページ 「凝固的歴史-哈爾濱建築文化」-「建築背後的歴史-市政管理局」
- ^ a b 王蔚「周仏海物傷其類的三人」騰訊網(原典:『南方周末』)2023.2.20
- ^ 汪兆銘政権で外交部長を務めた褚民誼と徐良、駐日大使を務めた蔡培は死刑判決(蔡培は上訴審で無期懲役に減刑)を受けている。中華民国維新政府最後の外交部長・夏奇峯は無期懲役、汪兆銘政権最後の外交部長・李聖五は懲役15年判決だった。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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