三共レッドソックス
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三共レッドソックス(さんきょうレッドソックス、Sankyo Redsox)は、1950年から日本女子野球連盟に参入した日本の女子プロ野球球団。
三共レッドソックス | |
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創設 | 1950年 |
所属リーグ | |
日本女子野球連盟 | |
歴代チーム名 | |
レッドソックス(1950年1月) →三共レッドソックス(1950年3月) →三共女子野球部(1952年11月) | |
本拠地 | |
獲得タイトル | |
成績(タイトル以外) | |
球団組織 | |
運営母体 | 三共 |
監督 | 岡田源三郎 他 |
球団の歴史
[編集]1950年、関浦信一を代表とした「レッドソックス」として発足し、同年3月に、製薬会社の三共(現:第一三共)をスポンサーに付け「三共レッドソックス」と改名した。1952年11月、日本女子野球連盟がノンプロ化すると、レッドソックスもノンプロに組織転換を行い、「三共女子野球部」となった。三共女子野球部は1970年11月まで活動を行い、解散した。
所属選手
[編集]- 中村桂子:投手。小柄ながら速球とカーブを武器にエースとして長年三共投手陣を支え、主将も務めた。大和田の入団後はエースの座を譲ったものの、チームの顔として投げ続けた。
- 瀬川はま子
- 関淑子:内野手・捕手。「ミス女子プロ野球」と呼ばれる美貌で人気を集めた。
- 増田英子
- 渋谷喜代子:強肩の外野手。トップバッターとして活躍した。
- 北條零子:俊足好守の外野手として、草創期の主将を務めた。
- 大和田恵美子:投手。身長172cmと恵まれた体格を活かして、攻守に活躍した[1]。1957年新人王。1958年から1961年まで4年連続で最優秀投手。1961年・1962年最高殊勲選手、1965年首位打者。秦孝子の引退後は助監督も務めた。
- 秦孝子:捕手・外野手。北海道夕張出身。助監督も務めた。
- 池淵富子:投手。三共最後のエース。三共女子野球部が解散すると野球を引退し、女子プロゴルフに転向。1985年の富士通レディースなど、ツアー通算8勝を挙げた。
チーム成績・記録
[編集]日本選手権優勝:5回(1958年 - 1962年)
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[編集]出演映画
[編集]脚注
[編集]- ^ 寺山修司「君泣くや母となりても」、『スポーツ版裏町人生』所収、角川書店、1992年6月改訂再版、P136。