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三好康之 (陸軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三好 康之(みよし やすゆき、1898年明治31年)8月12日[1][2] - 1989年平成元年)11月6日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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広島県出身[1][2][3]広島地裁判事・三好康親の息子として生まれる[1]広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第42連隊付となる[1][3]。1922年(大正11年)12月、歩兵中尉に昇進[1]。1923年(大正12年)2月から10月まで、陸軍航空学校で操縦学生として学んだ[1]。1923年11月、飛行第3大隊付となる[1]。1925年(大正14年)5月、兵科航空兵に転科し航空兵中尉に任官し飛行第3連隊付となる[1]。同年6月、所沢陸軍飛行学校教官に就任[1]。1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業し飛行第1連隊中隊長に就任[1][2][3]

1931年(昭和6年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1934年(昭和9年)8月、航空兵少佐に昇進[1]。1935年(昭和10年)3月、アメリカ大使館武官補佐官に発令された[1]。1936年(昭和11年)8月、浜松陸軍飛行学校教官に転じ、参謀本部員を経て、1937年(昭和12年)11月、航空兵中佐に進み大本営参謀に就任[1]。1938年(昭和13年)3月、関東軍参謀に転じ、1939年(昭和14年)8月、航空兵大佐に昇進し航空兵団参謀となる[1][3]

1940年(昭和15年)8月、陸大教官に転じ、陸大研究主事を経て、1942年(昭和17年)3月、第5飛行集団参謀長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。翌月、組織改編により第5飛行師団参謀長となる[1][3]。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進級し明野陸軍飛行学校水戸分校長に発令され帰国[1][2][3]。分校の組織改編により1944年(昭和19年)6月、常陸教導飛行師団長に就任[1][2][3]。同年9月、第12飛行師団長心得に転じ、1945年(昭和20年)5月、第30戦闘飛行集団長に発令され、熊本本土決戦に備える中で終戦を迎えた[1][2][3]。同年9月、中部軍管区参謀副長に就任[1]。同年11月に復員[1]。同年9月から1946年(昭和21年)2月まで、三好機関長を務め京都に駐在した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

著作

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  • 『歴史の思想体系とその教訓 : 一軍人の歴史観』上下、勁草出版サ−ビスセンタ−、1978年。

親族

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  • 兄 三好康方(海軍機関大佐)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『日本陸海軍総合事典』第2版、152頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』709-710頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』428頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」85頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。