三宅俊一郎

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三宅 俊一郎(みやけ しゅんいちろう、大正2年(1913年)6月17日 - 没年不明)は、日本の内科小児科医。三宅家の9代目[1]

経歴[編集]

鳥取県境港市外江町出身。亨の長男[2]

岡山医科大卒[2]岡山医大附属病院、米子博愛病院勤務[2]昭和21年(1946年)外江町で開業する[2]

趣味は囲碁スポーツ[2]

系譜[編集]

三宅家(鳥取県境港市外江町
境港市外江町の三宅家は、外江にあって当主俊一郎で9代目にあたるという古い医家系である[1]。しかしその5代までは、重なる火災にあって資料を全くなくして、その姓名さえ判らない[1]
6代目を三折といい、元治元年(1864年)12月7日没の墓碑が残されていて、同家の最も古い資料である[1]
7代・謙貞は、三折の子として天保2年(1831年)に生まれ、父について嘉永5年(1852年)3月より文久3年(1863年)5月まで12年間漢方医術内科外科を学んだ[1]。翌元治元年正月より外江村で内科外科を開業した[1]。また漢学その他の学問もよくしたとみえ、安政6年(1859年)より明治5年(1872年)まで14年間医業の傍ら寺子屋を開いて近在の子弟を教育した(鳥取県教育史)[3]。外江小学校が設立されるやその初代校長を勤めたという[3]。また近隣の弓浜の医師たちからも信望があり、会見郡乙部医師組合の設立につとめ、弓浜医学会の幹事もしていた[3]大正3年(1914年)83歳で没している[3]
8代・亨は明治10年(1877年)外江に生まれ、上京して済生学舎に学び、明治36年(1903年医術開業試験に合格した[3]。翌年日露戦争に従軍し、帰国後群馬県桐生市で一時内科医院を開業していたが、明治43年(1910年)外江に帰って跡をついで開業した[4]
 
三折━━謙貞━━亨━━俊一郎

参考文献[編集]

  • 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 ミ…261頁
  • 森納 『続 因伯の医師たち』 411-413頁

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 森納著『続 因伯の医師たち』411頁
  2. ^ a b c d e 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 ミ…261頁
  3. ^ a b c d e 森納著『続 因伯の医師たち』412頁
  4. ^ 森納著『続 因伯の医師たち』413頁