三宅博 (野球)
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岡山県倉敷市 |
生年月日 | 1941年6月4日(83歳) |
身長 体重 |
169 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1960年 |
初出場 | 1960年 |
最終出場 | 1963年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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三宅 博(みやけ ひろし、1941年6月4日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(内野手)、コーチ、スコアラー。
来歴・人物
[編集]岡山県立倉敷工業高等学校では甲子園に3回出場。2年生の時、1958年春の選抜にエース渡辺博文を擁し出場するが、2回戦(初戦)で立命館高に敗れる。翌1959年の春の選抜にも連続出場。1回戦で東邦高に大敗。同年夏の甲子園では2回戦で東北高に完封負け。1年下のチームメイトでは、エースの杉本喜久雄、一塁手の小橋優(国鉄)、右翼手の中村邦弘(大毎)がプロ入りしている。
1960年に大阪タイガースに入団。同年はウエスタン・リーグの盗塁王を獲得した。1963年には遊撃手、二塁手として18試合に先発出場。同年オフに背番号を34に変更し期待されたが、翌1964年に靭帯断裂の怪我をし、1965年に引退した。
引退後、会社員となり球界を離れていたが、1980年にコーチとしてタイガースに復帰。1982年からはスコアラーとなり、2006年に退団した。著書の中でセンスを持ったクセ盗みの名人として島野育夫、弘田澄男、ランディ・バース、和田豊の4名を挙げている[1]。2007年、北京五輪野球日本代表チームのスコアラーとして招集された。
2011年1月からは岡山商科大学硬式野球部コーチとなり、スコアラー時代に培った相手チームの緻密なデータ分析もあり、2012年には同野球部を中国六大学野球春季リーグで12年ぶりの優勝に導いた。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1960 | 阪神 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1961 | 10 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1962 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1963 | 26 | 54 | 47 | 7 | 12 | 4 | 0 | 0 | 16 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | .255 | .300 | .340 | .640 | |
通算:4年 | 46 | 60 | 53 | 8 | 12 | 4 | 0 | 0 | 16 | 0 | 2 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .226 | .268 | .302 | .570 |
背番号
[編集]- 52(1960年 - 1963年)
- 34(1964年 - 1965年)
- 75(1980年 - 1981年)
脚注
[編集]- ^ 三宅博著、虎のスコアラーが教える「プロ」の野球観戦術、2013年、祥伝社、P26
著書
[編集]- 『虎の007 スコアラー室から見た阪神タイガースの戦略』(角川マガジンズ、2012年)