三宅正次
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 1560年(永禄3年)[1] |
死没 | 1597年1月22日(慶長元年12月5日) |
別名 | 弥次兵衛(通称) |
墓所 | 長明寺 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 三宅氏 |
父母 | 父:三宅政貞、母:鳥居忠吉の娘 |
兄弟 | 三宅康貞、三宅正次、三宅広勝、三宅正次(同名の弟) |
妻 | 一条信龍の娘 |
子 | 三宅正勝、娘(深津正通の妻) |
三宅 正次(みやけ まさつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
経歴
[編集]元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでの徳川家康の敗走に従い、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも従軍[2]。天正10年6月2日(1582年6月21日)の徳川家康の伊賀越えに随行している[3]。
天正12年(1584年)の長久手の戦いでは、高力正長と共に堀秀政の軍を攻め、首級を挙げたが、軍法に違反したとして一時籠居させられた。天正18年(1590年)の小田原征伐では、和議の使者として韮山城に赴いた。その後、武蔵国足立郡指扇領において5000石を与えられた[2]。
慶長元年12月5日(1597年1月22日)、久野宗能の嫡子宗朝の私怨によって殺害された[4][5]。あるいは慶長4年(1599年)に死去ともされる[2]。