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三嶋飯粒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三嶋 飯粒(みしま の いいぼ、生没年不詳)は、日本古代の6世紀前半の豪族県主

出自

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三島県主(宿禰)氏は、『新撰姓氏録』「右京神別」によると、天神で、「神魂命十六世孫建日穂命之後也」とある。

経歴

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安閑天皇元年(推定534年)閏12月、天皇は大伴金村をお供にして摂津国三嶋へ行幸し、県主の飯粒(いいぼ)に良田を問われた。飯粒は天皇からの諮問を受けたことを名誉と感じたのか、この上なくよろこんで、誠心を尽くして応答した。そして、上御野(かみのみの)・下御野(しもみの)(摂津国西成郡三野郷、現在の大阪府大阪市西淀川区姫島町・御幣島町一帯)と、上桑原(かみのくわはら)・下桑原(しものくわはら)(現在の茨木市桑原)に及ぶ竹村(たかふ)の土地40町をすすんで天皇に献上した。これにより、天皇は大伴金村を通じて詔を発し、先に勅旨を軽んじて、嘘をついて良田の献上を惜しんだ大河内味張を郡司(国造)とすることを禁じている。

県主飯粒は詔を賜ったため、喜び恐懼して、息子の鳥樹を大伴金村の少年従者に献上した、という[1]

三嶋氏は、神護景雲3年(769年)2月に三嶋県主広調(ひろつき)らが、同4年7月に宗麻呂が宿禰を賜与されている[2]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第十八、安閑天皇2年閏12月4日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十九、称徳天皇、神護景雲3年2月22日条、巻第三十、同4年7月25日条

参考文献

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関連項目

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