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三木善理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三木善理
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 不明
改名 助太郎→善理
幕府 室町幕府
主君 畠山満家畠山持国伏見宮貞成親王
氏族 三木氏
父母 父:三木善清
兄弟 善理、三郎
善長重理
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三木 善理(そうぎ よしただ)は、室町時代中期の武士

概要

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仮名は助太郎。伏見荘下司で、荘園の鎮守社である御香宮神社の神主であり、畠山満家の被官でもあった[1]

応永24年(1417年)6月には、善理の弟・三郎が強盗事件を起こし、「善理以下悪党等」が本所伏見宮家や奉行の田向経兼政所小川禅啓と敵対して下司職や御香宮神主職を罷免された。このとき、善理が横領を行っていたことが判明している。その後善理は主君である畠山満家に訴え出たため、幕府の裁定によって翌年の9月に全ての役職や権限が事件前の状態に復帰している[2]

応永25年(1418年)12月27日には、経兼や禅啓の追放などを求めて訴えを起こしており、翌年に僧坊田代官職の還補と名田年貢の料返も争われた。三木一族と経兼・禅啓の対立は応永27年(1420年)に収束し、翌年12月に善理の嫡男・三木善長の元服式は田向亭で執り行われ、田向長資が加冠役を務めている。応永29年(1421年)の元日には善理・善長父子は初めて伏見宮貞成親王に拝謁し、これ以降御所の宴席に列なるようになり、下司名田地や丹波国草野・土野谷両村の代官職を与えられ、さらに、伏見宮家の遠隔地所領の経営にもかかわった。加えて、小川有理が元服した際に加冠役を務めている[3]

永享4年(1432年)の大和永享の乱では畠山持国から軍勢催促を受けて従軍した[4]

子孫

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息子の善長重理伏見宮家に仕えた。『地下家伝』によると、江戸時代にも伏見宮家の諸大夫を務めており、享保18年(1732年)に三木善道が死去して以来一旦断絶していたものの、寛政年間に三木善親が継承して幕末まで続いた[5]

脚注

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  1. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[1]
  2. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[2]
  3. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[3]
  4. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[4]
  5. ^ 三上景文『地下家伝 第21-26日本古典全集 ; 第6期)[5]』(日本古典全集刊行会、1937年)