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三木通秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三木通秋
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文3年8月10日1534年9月17日
死没 天正11年12月16日1584年1月28日
改名 源五郎(幼名)→通秋
別名 掃部助(通称
戒名 三覚院釈淸把
墓所 兵庫県姫路市飾磨区都倉 西徳寺
主君 赤松氏顕如
氏族 播磨三木氏
父母 父:三木通明
母:赤松晴政の娘
兄弟 通秋、黒瀬秀秋、川俣井秋長、坂渕長通、
船津井通次
不詳
安明、通正、秋年、通宗
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三木 通秋(みき みちあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将英賀城主。河野氏の支流とされる播磨三木氏の9代当主。

生涯

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天文3年(1534年8月10日三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。

永禄12年(1569年)に赤松義祐室町幕府15代将軍足利義昭織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高[1]の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。

元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。

天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦[2]の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。

しかし、天正8年(1580年)1月に三木城[2]が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。

天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。

参考文献

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  • 貝原益軒『黒田家譜』
  • 神栄宣郷『赤松氏・三木氏の文献と研究 』郷土志社、1976年

脚注

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  1. ^ 通秋の家臣・三木清閑の妻が孝隆の妹(黒田職隆の娘)であったという縁による。
  2. ^ a b 苗字(三木氏)との直接的な関係は特にない。