三村日修

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三村 日修
1823年4月14日文政6年3月4日)- 1891年明治24年)5月17日
法名 日修
生地 備後福山藩深津郡川口村
宗派 日蓮宗
寺院 久遠寺
本圀寺
立像寺
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三村 日修(みむら にっしゅう、1823年4月14日文政6年3月4日)- 1891年明治24年)5月17日)は、江戸時代から明治時代の日蓮宗の僧。日蓮宗管長、身延山法主を歴任した[1]。字は円政、宴政、号は心妙院。

生涯[編集]

備後福山藩領内の深津郡川口村で生まれる。備中三村氏の一族で、戦国大名・三村家の屋台骨と称された戦国武将・三村親成の子孫であり、水野氏が統治時代の福山藩では家老を務めた家柄である。

金沢立像寺の充洽園で日輝に学んだ。大阪中教院講主、本圀寺住職などを経て1885年(明治18年)に日蓮宗管長に任じられる。1886年(明治19年)に身延山法主を務め、宗派の指導者として、同宗の教育や布教の振興のため、身延山中心体制の確立をめざした。

脚注[編集]

  1. ^ 三村日修(みむら にっしゅう)とは”. コトバンク 講談社デジタル版日本人名大辞典+Plus. 朝日新聞社. 2020年7月23日閲覧。
先代
吉川日鑑
日蓮宗管長
第8・9代:1885年-1891年
次代
小林日董