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川口村 (広島県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かわぐちむら
川口村
廃止日 1933年(昭和8年)1月1日
廃止理由 編入合併
深津村川口村手城村奈良津村吉津村木之庄村本庄村沼隈郡神島村佐波村草戸村福山市
現在の自治体 福山市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 広島県
深安郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
川口村役場
所在地 広島県深安郡川口村
座標 北緯34度28分15秒 東経133度23分02秒 / 北緯34.47094度 東経133.38378度 / 34.47094; 133.38378 (川口村)座標: 北緯34度28分15秒 東経133度23分02秒 / 北緯34.47094度 東経133.38378度 / 34.47094; 133.38378 (川口村)
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川口村(かわぐちむら)は、かつて広島県深安郡に存在した村である。

相当地域

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深安郡川口村に相当する現在の地域は、以下の通りである。

福山市川口町、多治米町、東川口町、新涯町、曙町、西新涯町、新浜町、千代田町、及び松浜町の一部[1]

歴史

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この地域は、福山藩による干拓で造成された地域である。1600年代後半に行われた水野家による干拓で、水野家家老 上田玄蕃直次の指揮の下、現在の川口町・多治米町・東川口町に相当する地域が造成された[2]。その後、幕末から明治にかけて行われた阿部家による干拓で現在の新涯町・西新涯町・曙町・新浜町にあたる地域が造成された。

明治維新以降しばらくは川口村(本頁で述べている川口村ではなく、江戸時代からの村。旧川口村とする)、多治米村、一番、二番、三番新涯村という風にいくつかの村に分かれていたが、1889年の町村制施行でこれらが合併して川口村が成立し、同年選挙が行われて11名の議員が選出された。川口・多治米・新涯の戸長を勤めていた多木市兵衛が川口村村長となり、村役場には助役1人、収入役1人、書記4人、使丁2人が置かれた。[3]

戸数は1894年時点で618戸だった。

1898年、深津郡が安那郡と合併したことにより、深安郡が成立、深安郡川口村となった。

村役場は旧川口村の頃から利用されていたものを使っていたが、1924年に現在福山市農協川口支店がある辺りに移転した。

1933年、川口村は福山市に編入合併し、福山市川口町となり、自治体としての川口村は幕を閉じた。

出身人物

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衣川閑斎…儒学者。福山藩儒。藩校弘道館館長を務めた。旧川口村出身

三村日修…日蓮宗の僧侶。日蓮宗管長、身延山法主。旧川口村出身

社寺、学校など

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  • 神社
    • 川口八幡神社
    • 塩崎神社
  • 寺院
    • 明石山 崇興寺 浄土真宗本願寺派
    • 寶龍山 正福寺 浄土真宗本願寺派
    • 西光山 常福寺 真言宗
    • 慶法山 光栄寺 浄土真宗本願寺派
  • 学校
    • 深安郡川口尋常高等小学校

明治までは寺子屋が数件存在した。寺子屋を開いていたのは庄屋、医者、僧侶などであった。

行政

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川口村の行政は村長を中心に、庶務掛、兵事掛、租税掛、労務掛、勧業掛、収入事務などの担当に分かれて職務を行っていた。明治期の川口村役場の役職者は次の通り。[4]

  • 村長 多木市兵衛
  • 助役 岡田市左衛門(庶務掛を兼務)
  • 収入役 多木厳二(租税掛を兼務)
  • 書記 多木達次郎(兵事・労務掛)
  • 書記 土肥忠之(勧業・庶務掛)
  • 書記 掛谷善三郎(租税掛・収入事務)
  • 書記 佐藤善太郎
  • 書記 赤木頼太(1900年任)

出典

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  1. ^ 歴史的行政区域データセットβ版”. 2021年2月28日閲覧。
  2. ^ 福山市公式サイト”. 2021年2月28日閲覧。
  3. ^ 『川口築成三百年史』福山市川口町土地改良区、1968年、467頁。 
  4. ^ 『川口築成三百年史』福山市川口町土地改良区、1968年、468頁。