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三浦義意

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三浦義意
三浦義意(『英雄百首』(歌川貞秀画))
時代 戦国時代
生誕 明応5年(1496年
死没 永正13年7月11日1516年8月9日
別名 荒次郎(通称)
墓所 神奈川県三浦市
官位 弾正少弼
氏族 相模三浦氏
父母 三浦義同
兄弟 義意太田資康正室
真里谷信勝
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三浦 義意(みうら よしおき[1])は、戦国時代武将相模三浦氏最後の当主。通称は荒次郎。官途名弾正少弼

略歴

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三浦義同の嫡男として誕生。室に真里谷信勝の娘・真里谷恕鑑の妹(異説有)。

父から相模国三崎城新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ、永正7年(1510年)頃、家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われて三浦半島に押し込められた。

父と共に新井城に籠って3年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に新井城は落城、父・義同の切腹を見届けた後に敵中に突撃して討ち取られたと言う。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了する事になる。

最期

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三浦浄心北条五代記[2]には、背丈は75(227センチ)と伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが2分(6センチ)、白樫の丸太を12寸(364センチ)に筒切りにしたものを八角に削り、それに節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰めて兜の頭上を打つとみぢんに砕けて胴に達し、横に払うと一振りで5人、10人が押し潰され、棒に当たって死んだものは500余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている。『北条五代記』より前に成立したと推測されている『北条記[3]にはそのような記述はなく、永正15年(1518年)7月11日に父・義同や家臣たちと共に討死した、と記されている。


ギャラリー

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脚注

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  1. ^ 義意を「よしもと」と読み異名に義基とする説もあり。
  2. ^ 巻9「三浦介道寸父子滅亡の事」
  3. ^ 巻2(2)「義同討死之事」

関連史料

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  • 鎌倉幕府『吾妻鏡』
  • 上杉孝良『改訂 三浦一族- その興亡の歴史-』
  • 横須賀市『横須賀市史』『新横須賀市史』
  • 三浦一族研究会『三浦一族資料集』
  • 三浦浄心『北条五代記』
  • 『相州兵乱記』

関連項目

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  • 居神神社 - 主祭神「三浦荒次郎義意公」として祀る。