三野勝大
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 香川県坂出市 |
生年月日 | 1971年7月6日(53歳) |
身長 体重 |
186 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト1位(逆指名) |
初出場 | 1997年10月8日 |
最終出場 | 2000年9月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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三野 勝大(みの かつひろ、1971年7月6日 - )は、香川県坂出市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]丸亀商業高校では控え投手、東北福祉大学社会福祉学部社会福祉学科へ進学。
大学では2学年上に斎藤隆、金本知憲らがいた。上級生になると同期の関根裕之との2枚看板として活躍。全日本入りも果たした。3年春はリーグ最優秀選手、ベストナイン(4年秋も)。当時は関根が先発を任されるエースで完成度の高い投手であったのに対して、球は速いが制球力のない未完成の投手であった。 スライダー、カーブ、フォークが武器。
逆指名制度が実施された1993年のドラフト会議前に、読売ジャイアンツを逆指名することを表明[1]。当初は近鉄と広島がマークしていたが、この年の目玉選手であった小久保裕紀や河原隆一が他球団の逆指名に傾いたことで、巨人が急遽獲得に動いたとされている[2]。ドラフトでは巨人が1位指名で交渉権を獲得し契約金1億5000万円、年俸1200万円(金額は推定)[3]で入団した。
入団以後3年間1軍登板はなく、1997年シーズン最終戦で初の一軍登板を果たす。しかし巨人ではこの1試合のみの登板に終わり、1999年シーズン途中に金銭トレードで横浜ベイスターズに移籍。
移籍一年目には登板がなく翌年の2000年に4試合の登板があったものの翌年は一軍登板なしに終わり、シーズン終了後に戦力外通告を受けそのまま退団となった。
その後は東京都日野市で接骨院を開業、新宿鍼灸柔整専門学校では教員も務めた。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 巨人 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 3 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 |
2000 | 横浜 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 27 | 5.0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 0 | 9 | 0 | 1 | 5 | 5 | 9.00 | 2.40 |
通算:2年 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 30 | 6.0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 0 | 11 | 0 | 1 | 5 | 5 | 7.50 | 2.00 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 12 (1994年)
- 29 (1995年 - 1997年)
- 48 (1998年 - 1999年途中)
- 63 (1999年途中 - 2001年)
脚注
[編集]- ^ 『朝日新聞』1993年11月16日付朝刊 (13版、23面)
- ^ 【ドラフトの記憶】書けなかった巨人ドラフト1位 痛感したスクープ取材の面白さと難しさ 2021年10月10日 スポーツ報知
- ^ 『朝日新聞』1993年11月28日付朝刊 (14版、22面)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 三野勝大 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)