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上川徹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上川 徹
名前
カタカナ カミカワ トオル
ラテン文字 KAMIKAWA Toru
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1963-06-08) 1963年6月8日(61歳)
出身地 鹿児島県鹿児島市
身長 180cm[1]
体重 78kg[1]
選手情報
ポジション FWDF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

上川 徹(かみかわ とおる、1963年6月8日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元サッカー選手、元サッカー審判員(元国際審判員)。元日本サッカー協会 (JFA) 審判委員長。

息子はサッカー選手の上川琢[2][3]

経歴

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鹿児島高専3年修了後中退、東海大学を経てフジタ工業でプレーした。1992年引退後、日本初のプロサッカーリーグ(Jリーグ)のために設置された選手経験者向け審判養成講座の一期生として審判員のキャリアをスタートする。1994年、1級審判員を取得し、1996年Jリーグの主審デビュー。1998年から国際主審登録され、国際Aマッチでも笛を吹いた。2002年からはJFAのスペシャルレフェリー(現:プロフェッショナルレフェリー)(審判活動によって主たる収入を得る審判員)として活動していた。

2002 FIFAワールドカップで初めてW杯の主審に選ばれ、グループリーグアイルランドカメルーン戦を担当した[4]2006 FIFAワールドカップでも2大会連続で主審として選出、グループリーグ開幕2戦目のポーランドエクアドル戦と、イングランドトリニダード・トバゴ戦を担当した。さらに、同リーグでのジャッジが評価され、日本人審判員としては初めて、廣嶋禎数とともに、決勝トーナメント3位決定戦ドイツポルトガル戦の審判(主審)も務めた[4]。この試合ではドイツ代表のGKであるオリバー・カーンからナイス・ジャッジだったと声をかけられている[4]。同一のワールドカップにおいて、日本人審判員が3度主審を務めたのは初めて(後に西村雄一が2010年大会で4度務めて記録を更新)。ワールドカップの審判員は45歳が年齢の上限と定められているため、2006年のワールドカップが最後の機会(当時43歳)となった。

2006年10月、ひざの故障なども影響し、南アフリカW杯に向けて後進に道を譲るため、国際主審としては2年・国内1級審判としては7年の定年を残して勇退することを発表した。同じく2007年1月、スペシャルレフェリーを退任して現役を引退する方針を固める事となった[4]。同年2月からは日本サッカー協会内に新設されるトップレフリー・インストラクターとして後進の指導にあたる。南アフリカW杯ではFIFAが組織する「審判委員会」のメンバーとなり[4]、出場審判員の審査を行なう「アセッサー」として参加している。2011年には、IFFHSが選ぶ4半世紀の優秀な審判において、第102位に選ばれた[5]

2012年6月、日本サッカー協会の理事・審判委員長に就任。同年8月よりJリーグ理事も兼務。2016年に退任した(後任は元AFC審判部長の小川佳実)。

エピソード

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  • よく名前を間違えられる。Jリーグの開始前の紹介で「川上徹」と表示されることも少なくない。2006年のJリーグアウォーズで最優秀主審賞を受賞した際もプレゼンターに「川上徹さん」と呼ばれ、会場の爆笑を誘った。
  • ポーランド対エクアドル戦ではポーランド代表ヤツェク・クジノヴェクシュートをノーゴールだと宣言した為、誤審だと感じたポーランドのサポーターから大ブーイングを浴びせられた。しかし、それが誤審ではなかったことはFIFAが3位決定戦も含めてその後の2試合のジャッジを任せたことからも明らかである。[独自研究?]
  • 3位決定戦となったドイツ-ポルトガル戦では巧みなジャッジで試合を進め、試合後にはポルトガル代表のスコラーリ監督やドイツ代表GKのオリバー・カーンからもジャッジを賞賛された。
  • 2006 FIFAワールドカップでの的確なジャッジがロシアからの審判インスペクターの目に留まり、2006年8月20日ロシアウラジオストクで行われたロシア・プレミアリーグルチ・エネルギアスパルタク・モスクワ戦で主審を務めた。なお、欧州のトップリーグに日本人審判員が招待されて笛を吹くのは初めてのことで、ロシアリーグでアジアから審判員を招待するのも初めてのことであった(ロシア以外のヨーロッパから審判を招くことはあった)。
  • 2003年、2006年の2度、Jリーグ優秀審判に選出されているが、2003年の初受賞時は、疑問の残る判定を連発していたこともあり、Jリーグアウォーズ会場のサポーターからは、納得のいかない声と痛烈なブーイングが起こった。上川はこのブーイングが「励みになった」と後に語っており、2006年の2度目の受賞時は、サポーターからも暖かい拍手が送られた。
  • 前述のように、2003年頃までの上川は、カードを乱発して試合の流れを断つことが非常に多く、サポーターからも「Jリーグ有数の問題審判」として位置づけられていた。不自然な判定が少なく、試合も壊さないという現在の上川評が固まったのは、比較的最近のことである。[いつ?]
  • 審判現役時代は試合中にスタミナ切れにならないよう、週4回ほど5キロのマラソンをしていたとのこと。[6]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1986-87 フジタ JSL1部
1987-88 フジタ JSL1部
1988-89 フジタ JSL1部
1989-90 フジタ 22 JSL1部 4 0 0 0
1990-91 フジタ 22 JSL2部 6 0 0 0
1991-92 フジタ 22 JSL2部 1 0 0 0
通算 日本 JSL1部 17 0
日本 JSL2部 7 0 0 0
総通算 24 0

審判経歴

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審判歴

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  • 1991年 3級審判員資格取得
  • 1992年 2級審判員資格取得
  • 1994年 1級審判員資格取得
  • 1998年 - 2006年 国際主審登録
  • 2002年 - 2006年 スペシャルレフェリー(現:プロフェッショナルレフェリー)契約
  • 2007年1月 引退

記録

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Jリーグ登録 1995年-2006年

  • J1 主審158試合 副審17試合
  • J2 主審36試合 副審0試合

受賞歴

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ドキュメンタリー

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  • にんげんドキュメント もうひとつのワールドカップ~審判・上川徹の挑戦~』(2006年5月26日 NHK総合テレビ 午後10時00分 - )

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b 『1991-1992JSLイヤーブック』p72
  2. ^ ア式蹴球部> 【連載】#atarimaeni CUP 開幕直前特集 第3回 渡邊恵太×藤間英吉(1/3)”. 早稲田スポーツ新聞会 (2021年1月3日). 2021年9月17日閲覧。
  3. ^ 【選手情報】上川 琢 選手(早稲田大学所属) 2022シーズン加入内定 および、2021 JFA・Jリーグ特別指定選手認定』(プレスリリース)福島ユナイテッドFC、2021年9月17日https://fufc.jp/news/10780/2021年9月17日閲覧 
  4. ^ a b c d e FLASH 2012年6月26日号 29頁 2002日韓W杯「あの人」「あの聖地」の今
  5. ^ The World's best Referee of the Quarter of a Century (1987-2011) IFFFS、2012年9月12日閲覧。
  6. ^ NHKにんげんドキュメントもうひとつのワールドカップ審判・上川徹の挑戦

関連項目

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外部リンク

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