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上杉房実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上条房実から転送)
 
上杉房実
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 嘉吉3年(1443年)?
死没 永正5年(1508年)?
別名 号:蓮器、朝日寺
戒名 玄澄
官位 淡路守
氏族 上条上杉家
父母 父:上杉清方
兄弟 定顕房定房実
定実[注釈 1]上条定明
積翠院伊達尚宗正室)[注釈 2]上条定憲[注釈 3]
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上杉 房実(うえすぎ ふさざね)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将連歌作者。上条房実ともいう。

生涯

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上杉清方の子として誕生。「天文上杉・長尾系図」では刈羽郡上条の地を治める上条上杉家を継いだとされるが確証はない[注釈 4]

室町幕府の信頼厚く、東国の要として活躍した兄であり越後国守護房定の時代にはより多くの文化人や公家らが越後を訪れ、越後の文化は大いに発展した。房実も連歌を嗜み、長享2年(1488年)越後を訪れた万里集九を迎えて詩歌の会を催している。明応4年(1495年)に成立した新撰菟玖波集には玄澄法師の名で6句入集している[7]。また尊応流、二楽流の流れをくむ能書家として「筆跡流儀系図」「流儀集」「古筆流儀別」に名が挙げられている[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 異説有り。
  2. ^ 房定の娘、定実の娘説もあるが、長谷川伸は世代の問題とその後の伊達氏の天文の乱との関わりから、定実の姉妹とみるのが妥当としている[1][2]
  3. ^ 孫とも。
  4. ^ 明応5年(1496年)閏2月に発給された足利義稙御内書の宛名に「上杉播磨入道」とあり、長禄4年(1460年)、上杉房定の注進により足利義政から戦功を褒賞された「上杉播磨守」と同一人物と推定されている。その官途から享禄天文期の上条家当主・上条定憲の近親者と思われ、家永遵嗣は明応3年(1494年)の房定の死去後、長享2年(1488年)に元服したばかりの若き守護上杉房能長尾能景とともに補佐した人物としている(家永遵嗣「明応二年の政変と北条早雲の人脈」『成城大学短期大学部紀要』27、1996年)。家永はこの「上杉播磨入道」を房実に比定しているが、森田真一や黒田基樹は「浅羽本上杉系図」で房実の長兄とされている上杉定顕に比定し、上条家の家督は定顕が継いだとしている[3][4][5]。一方、片桐昭彦は系図類に見える定顕の官途は兵庫介、兵庫頭であり、上条上杉氏には系図に見られない人物が多いことも含め、検討の余地があるとしている[6]

出典

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  1. ^ 長谷川伸「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係-越後上杉氏と伊達氏の場合-」『地方史研究』254号、1995年。
  2. ^ 長谷川伸「越後天文の乱と伊達稙宗-伊達時宗丸入嗣問題をめぐる南奥羽地域の戦国期諸権力」『国史学』第161号、1995年。
  3. ^ 森田真一「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」『新潟史学』第46号、2001年。
  4. ^ 森田真一「戦国の動乱」『笹神村史 通史編』中世第四章、笹神村、2004年。
  5. ^ 黒田基樹 著「上杉清方の基礎的研究」、黒田編基樹 編『関東管領上杉氏』』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻〉、2013年。 
  6. ^ 『上越市史 通史編2 中世』243頁。
  7. ^ 『新撰菟玖波集作者部類』[要文献特定詳細情報]
  8. ^ 小松茂美『日本書流全史』第一巻、講談社、1970年[要ページ番号]

出典

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  • 『国書人名辞典 第2巻』岩波書店、1995年。
  • 『上越市史 通史編2 中世』上越市、2004年。
  • 『新潟県史 通史編2 中世』新潟県、1987年。