長尾能景
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 寛正5年(1464年)[1] |
死没 | 永正3年9月19日(1506年10月5日) |
別名 | 通称:弾正左衛門尉 |
戒名 | 天徳院殿高岳正統 |
墓所 | 上越市の林泉寺 |
官位 | 信濃守 |
幕府 | 室町幕府 越後守護代 |
主君 | 上杉房定→房能 |
氏族 | 越後長尾氏 |
父母 | 父:長尾重景 母:不明 |
兄弟 | 能景、山吉能盛正室?[2] |
妻 |
正室:法往院 側室:信濃高梨氏の娘(法名:玉江正輝) |
子 |
飯沼正清室、為景、上杉定実継室、 山本寺定景室、高梨澄頼正室、為重、景忠など[注釈 1] |
長尾 能景(ながお よしかげ)は、越後国の戦国大名。越後長尾氏6代当主。越後守護代。長尾為景の父。上杉謙信の祖父。
略歴
[編集]寛正5年(1464年)、長尾重景の子として誕生。越後守護である上杉房定・房能の二代に仕えた[3]。房定の死後、事実上越後の実権を握り、守護の権力強化を目論む房能とはしばしば対立したが、名目上はあくまで守護代の立場に留まっていた。永正元年(1504年)の立河原の戦いで大敗を喫し、危機的状態にあった房能の実兄である関東管領・上杉顕定を救援するために関東地方に出兵し、疲弊した扇谷上杉家の上杉朝良を攻撃する。
永正3年(1506年)9月、能景は畠山卜山の要請を受けて一向一揆との戦いのため越中国へ出兵するが[4]、般若野の戦いで戦死した。越中守護代・神保慶宗の裏切りによるとされる。
書状
[編集]1497年、長尾能景が刈羽郡安田城主毛利重広へ充てた書状が残されており、上越市指定の文化財となっている[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 山本 2004.
- ^ 江戸時代に作成された山吉家の系図に拠る。
- ^ 池 & 矢田 2007, pp. 16.
- ^ 池 & 矢田 2007, p. 18.
- ^ “上越市の文化財 長尾能景書状”. 上越市文化行政課 (2014年5月29日). 2020年7月20日閲覧。
参考文献
[編集]- 池亨; 矢田俊文 編『上杉氏年表 : 為景・謙信・景勝』長谷川伸・福原圭一・片桐昭彦・木村康裕・水澤幸一・市村清貴・黒田基樹・栗原修・広井造・竹田和夫・西澤睦郎執筆(増補改訂)、高志書院、2007年3月。ISBN 9784862150196。 NCID BA81497747。OCLC 675847679。全国書誌番号:21185666。
- 山本信吉「82号 延徳三年長尾能景、上杉房定父子等年齢書出」『正智院文書』吉川弘文館〈高野山正智院經藏史料集成, 1〉、2004年9月。ISBN 4642014047。 NCID BA68559329。OCLC 674921268。全国書誌番号:20668531。