上田太郎 (陸軍軍人)
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上田 太郎 | |
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生誕 |
1868年11月15日 日本 美濃国不破郡矢道村 (岐阜県大垣市) |
死没 | 1937年5月16日(68歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1888年 - 1924年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年10月2日[1]〉- 1937年〈昭和12年〉5月16日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2][3]。
経歴
[編集]美濃国不破郡矢道村[4](青墓村、赤坂町を経て現岐阜県大垣市矢道町)で上田半右衛門の長男として生まれ、1909年(明治42年)に家督を相続した[3]。
1888年(明治21年)岐阜県第一中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業[4]。1892年(明治25年)7月、陸軍士官学校(3期)を卒業し、1893年(明治26年)3月、陸軍歩兵少尉に任官[1][2]。日清戦争に従軍[3]。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し参謀本部に配属された[5]。日露戦争では大本営兵站総監部副官として出征した[1]。
以後、遼東守備軍参謀、関東都督府陸軍部参謀、第4師団參謀などを経て[3]、1912年(明治45年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第72連隊長に就任[2][3]。第13師団参謀長を経て、1917年(大正6年)8月、陸軍少将に昇進し歩兵第11旅団長となる[1][2][3]。
第5師団留守司令官を経て、 1921年(大正10年)7月、陸軍中将に進み第19師団長に親補された[1][2][3]。1924年(大正13年)2月に待命となり、同年同月、予備役に編入された[1][2][3]。
その後、岐阜県大垣市馬場町に居住し、満洲事変後は各地で軍事後援、講演を行った[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第8版』1928年。
- 『西濃之大勢誌』中央新聞社、1935年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。