上田重秀
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正20年(1592年) |
死没 | 寛文元年(1661年) |
別名 | 主殿助 |
戒名 | 重秀寺殿穐林宗清大居士 |
墓所 | 東京都港区白金の重秀寺 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家光 |
氏族 | 上田氏 |
父母 | 父:上田重安、母:杉原長房の娘 |
兄弟 | 重秀、重政、可勝 |
妻 | 村井晴泰娘 |
子 |
堀秀嵩室、室賀正俊室、森可久室、 堀田一道室、 鈴木治郎左衛門(尾張徳川家臣)室 養子:重則(堀秀嵩の子) |
父・上田重安は関ヶ原の戦いで西軍に属して除封された後、縁戚の浅野幸長に仕え、大坂の陣において浅野長晟配下として従軍、戦功を挙げた。重安は浅野家に家老として仕えていたため、重秀は江戸幕府に浅野家の人質として留め置かれた。
徳川将軍家より父・重安に江戸へ直臣として出仕するよう命が下ったが、代わりに嫡子である重秀が寛永9年(1632年)に父の戦功により旗本として幕府に召し出された。当初は蔵米であったが、寛永12年(1635年)、近江国野洲郡内8村、5000石を拝領。野洲郡服部村(現・守山市服部町)に平城造の服部陣屋(服部城)を築き、家老を派遣し領内を治めた。
寛永14年(1637年)、島原の乱に従軍。寛文元年(1661年)、70歳で病没。
家督は堀秀嵩に嫁いだ娘のもうけた子・重則が継いだ。子孫は幕府の上級旗本として続いた。