上野政夫
上野 政夫 うえの まさお | |
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生年月日 | 1936年7月4日 |
出生地 |
日本・愛知県西春日井郡西春町 (現:北名古屋市) |
没年月日 | 2005年12月2日(69歳没) |
死没地 | 日本・岐阜県可児市 |
出身校 | 名古屋大学法学部 |
前職 | 青山丘衆議院議員秘書 |
所属政党 | 無所属 |
子女 |
次女・上野雅美 (北名古屋市議会議員) |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1986年 - 2005年 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1982年 - 1986年 |
枚方市議会議員 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1971年 - 1979年 |
上野 政夫(うえの まさお、1936年〈昭和11年〉7月4日[1] - 2005年〈平成17年〉12月2日)は、日本の政治家、西春町長(5期)。西春町議会議員(2期)、大阪府枚方市議会議員(2期)などを歴任した。西春町長在任中の2005年(平成17年)12月2日、岐阜県可児市で自殺しているのが見つかった。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]愛知県西春日井郡西春町(現:北名古屋市)にて、五人兄弟の末っ子として生まれる。愛知県立名古屋西高等学校1年の時、肺結核と診断され、「会社勤めは無理。弁護士や医師、政治家しかないと思った」という。アルバイトをしながら勉強し、三度目の挑戦で名古屋大学法学部に合格[2]。
西春町長として
[編集]卒業後、工作機械メーカーに就職したのち、1971年(昭和46年)から大阪府枚方市議会議員を2期務めた[2]。その後、実家の母が独居となり帰郷。衆議院議員青山丘の秘書を経て[2]、1982年(昭和57年)、西春町議会議員に当選[3]。2期務めた後、1986年(昭和61年)11月に西春町長に初当選。以後、町長を5期務め、師勝町との合併を進めていたが、2005年(平成17年)12月2日に岐阜県可児市内で自殺しているのが見つかった。
自殺
[編集]- 11月28日 - 「死にに行く」などと話して車で自宅を出たため、妻の津美子が別の車で追い、その日は犬山市内のホテルに二人で宿泊[4]。
- 11月29日 - 上野と津美子が別々の車で出発したが、夕方に津美子が上野の車を見失い、その後連絡が取れなくなった[4]。
- 12月1日 - 津美子が愛知県警察西枇杷島署に捜索願を出す[4]。
- 12月2日 - 午前11時40分頃、岐阜県可児市東帷子の市道脇の空き地に止めてあった乗用車の運転席で、ポリ袋を頭にかぶった状態の上野を近くの住民が発見[4]。上野はすでに死亡しており、死因は窒息死。背広にネクタイ姿で、空気が入らないように首の部分で粘着テープを数回巻いて密封してあった。自宅と車の後部座席に家族らに当てたA4判で一、二枚の遺書が残っており、家族への感謝などがつづられていたほか、最後に「身をもって訴える」と、自殺をほのめかす内容だったという[注釈 1]。2006年(平成18年)3月20日には師勝町との合併(上野は師勝町・西春町合併協議会の会長も務めていた)も控える中での突然の自殺であった。津美子によると、上野は合併後の北名古屋市長選への出馬準備も進めていたという[5]。
西春日井郡では上野の自殺の1ヶ月前の11月6日、春日町長の丹羽弘昭も自殺を遂げており、この時上野は「広域事務組合の会合で10月27日に会ったばかり。そのときは何も変わりがなかったので、突然の悲報に驚いている。声が大きく元気の良い人だった。こんな急に亡くなって信じられない気持ちだが、ご冥福をお祈りしたい」と丹羽の死を悼んでいた[6]。
- 自殺による影響
上野の自殺を受け、行政部の部長級にあたる加藤公久が職務代行者となった[7]。収入役の安井常雄は「28日に仕事の話をしたのが最後。その時はそんな(自殺をするような)そぶりは見せていなかった。私も見抜けず残念に思っている」と悔やみ、「西春町に新しい空気を運んだアイデア町長。衛生施設や健康ドーム建設など功績は大きい」と、その死を悼んだ[3]。12月6日に開かれた師勝町議会では、本会議開会直後に上野に黙祷が捧げられた[8]。
上野の自殺に伴う西春町長選挙は、2006年(平成18年)1月17日告示、22日投開票で実施された[9]。当時西春町最年少町議だった太田考則が立候補を表明した一方、告示4日前になって上野の妻の津美子が立候補を表明し弔い合戦となったが[10]、投開票の結果、太田が当選した[11]。
業績
[編集]アイデア町長
[編集]民間企業出身の上野は、就任当初から民間の経営感覚を庁内に導入し、「アイデア町長」として知られた[3]。年功序列人事の廃止や能力重視の昇格を取り入れ、2001年度からは「課」「係」を廃止して「グループ制」を採用。組織として横の連携をしやすくする狙いで、部長を「専務」、次長を「常務」、課長を「リーダー」とするなど名称を工夫。町政に助言する「社外重役」も募集したほか[3]、たらい回しや前例の踏襲、問題の先送りといった役場組織の悪弊の追放に力を入れた[12]。
一方で、道路など町内の基盤整備を進め、優良企業を誘致するなど堅実な一面も。町財政を好転させ、下水道や西春駅西側整備などの懸案事業も大きく前進させた。「健康王国」をキャッチフレーズに健康づくりも積極的に展開。その象徴となる「西春健康ドーム」は、上野の自殺後の12月23日に竣工式を迎えるところだった。
人物
[編集]家族
[編集]役職
[編集]- 愛知県町村会会長(2005年)
- 師勝町・西春町合併協議会会長
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『現代物故者事典2003~2005』(日外アソシエーツ、2006年)p.87
- ^ a b c d e 『中日新聞』2002年11月07日朝刊尾張版20頁、「西春町長選 候補者の横顔 半谷弘男候補 上野政夫候補」
- ^ a b c d 『中日新聞』2005年12月04日朝刊尾張版20頁、「西春町長自殺 突然の悲報『なぜ』 新風運んだアイデア町長 町内に戸惑い広がる」
- ^ a b c d e 『中日新聞』2005年12月03日朝刊社会39頁、「西春町長が自殺 頭にポリ袋、車内で窒息 岐阜・可児で発見」
- ^ 『中日新聞』2006年01月19日朝刊尾張総合15頁 、「候補者はこんな人 西春町長選」
- ^ 『中日新聞』2005年11月07日朝刊近郊版16頁、「急逝した丹羽春日町長 農重視のまちづくり」
- ^ 『中日新聞』2005年12月03日夕刊社会11頁、「西春町長あす葬儀」
- ^ 『中日新聞』2005年12月06日朝刊尾張版16頁、「新議長に山田氏 副議長は石間氏 師勝町議会」
- ^ 『中日新聞』2005年12月13日朝刊県内版22頁、「西春町長選 来月17日告示」
- ^ 『中日新聞』2006年01月23日朝刊近郊版18頁、「新市移行作業 懸命に 西春町長選 当選の太田氏抱負」
- ^ 『中日新聞』2006年01月23日朝刊二社32頁、「最年少の町長誕生 西春町」
- ^ 『中日新聞』2006年01月20日朝刊尾張総合19頁、「任期2カ月も重責ずしり 異例の町長選 西春の良さ どう新市へ」
- ^ 『中日新聞』2006年04月25日朝刊尾張版18頁、「北名古屋市長選 旧両町の温度差はっきり」
- ^ 『中日新聞』2018年04月16日 朝刊尾張版12頁、「北名古屋市議選当選者」
- ^ 上野雅美
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 |
西春町長 1986年 - 2005年 |
次代 太田考則 |