上野街道 (名古屋市瑞穂区)
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上野街道(うえのかいどう)は、京都と鎌倉を結ぶ鎌倉街道のうち、愛知県名古屋市瑞穂区を通る部分の通称。
歴史的経緯
[編集]瑞穂区の鎌倉街道は別名上野街道と呼ばれている。(根拠は『尾張徇行記』に記されている。)
「上野之路」は『張州雑志』によると「井戸田より鳴海に至る」上野と呼ぶ者あり。『尾張徇行記』にも「此のあたり上野街道の跡なると疑いなし。
ルート
[編集]ルートの出典[2]
- 鎌倉往還
- 1185年:駅路之法で定められる
- 1192年:鎌倉幕府成立以後、整備される。
- 京鎌倉街道往還の一部と伝わる。
「なるみ潟 汐干に浦や なりぬらむ 上野の道を行く人もなし」
(藤原景綱:平安末期の武将)
- 京鎌倉街道のルート
- 京都 → 近江 → 関ケ原 → 美濃(古代東山道)
- 洲俣(すのまた、墨俣)
- 木曽を渡る → 折戸 → 萱津 → 熱多(熱田) → 井戸田(上野街道と呼ばれる) → 鳴海 → 二村山(沓懸)
- 洲俣:洲俣とかやいふ河には 舟を並べて 正木の綱にあらむ かけとどめたる浮橋あり いとあやしけれど渡る 『十六夜日記』(弘安2年)
一前条ニ所戴ノ石地蔵ヲ府志ニ道祖神ノ像トスル説ニヨリテ、今村ニ就テ上野ノ路ノ跡ヲ尋ヌレハ、大喜村ノ東ニ烏帽子街道と云字ノ所アリ、又ソレヨリ井戸田八幡ノ神主宅ノ前ノ地ヲ、於今上野街道ト字ヲ呼ヨシ、サレハ此アタリ上野街道ノアトナルコト疑イナシ、此村桜村古鳴海程近シ[3]
上野街道にある史跡
[編集]藤原師長謫居跡 - 嶋川稲荷の中に謫居址の碑がある。井戸田付近に流された太政大臣藤原師長の屋敷があった[4]。
亀井山龍泉寺 - 行基(670-750)が開基した薬師寺という大寺の塔頭に龍泉庵・龍雲庵・福伝院・妙喜院・蔵伝庵の5庵あり、応仁の乱(1464年)の頃に龍泉庵のみ残り、亀井山龍泉寺となる[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『瑞穂区の歴史』愛知県郷土資料刊行会、発行年:1985年
- 『瑞穂区誌』瑞穂区役所、発行年:1994年
- 『瑞穂区史 区制施行50周年記念』瑞穂区役所、発行年:1994年
- 名古屋市教育委員会『名古屋の史跡と文化財』名古屋市教育委員会、発行年:1970年