藤原師長謫居跡
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藤原師長謫居跡(ふじわらもろながたっきょあと、ふじわらのもろながたっきょあと)は愛知県名古屋市瑞穂区土市町にある史跡である。
概要
[編集]治承3年(1179年)11月、太政大臣だった藤原師長が平清盛によって尾張国井戸田庄(現在の名古屋市瑞穂区)に流された際、居住した場所である[1][2]。
歴史
[編集]治承3年(1179年)11月、後白河天皇と平清盛の衝突により、上皇の近臣だった師長は尾張国井戸田庄に配流される[3]。師長は当時42歳であった[3]。同年12月、龍泉寺にて出家し、理覚と称した[3]。
翌治承4年(1180年)12月、上皇の幽閉が解かれるとともに、師長も赦されて京に帰ったとされている[3]が、同年は清盛がまだ生存していたため、清盛が亡くなった養和元年(1181年)との説もある[2][4]。
伝承
[編集]地名伝説
[編集]- 枇杷島 - 謫居の間、師長は土地の豪族・横江光深の娘と懇意になった。師長が京へ帰る際、別れを惜しんだ娘は、土器野(現在の清須市、旧西枇杷島町)まで見送りに来たため、師長が本尊の薬師如来像と愛器の琵琶「白菊」を形見として分けたところ、娘は悲嘆のあまり帰路で川に身投げしてしまった。その場所に娘の亡骸と琵琶が葬られ、これを琵琶塚と呼び、のちの枇杷島の地名の由来となった[3][2]。かつては井戸田の東方一帯が「琵琶ヶ峯」と呼ばれる丘陵だったが、開発により現存しない[5]。
- 師長町 - 師長の名に由来するとされているが、謫居の地ではない[6]。昭和の時代に命名[6]。
- 妙音通 - 琵琶の名手であった師長の奏でる琵琶の音色にちなんで、昭和の時代に命名[6]。
アクセス
[編集]- 所在地
- 名古屋市瑞穂区土市町1丁目[7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 名古屋市文化財調査保存委員会『名古屋史跡名勝紀要』(改訂増補)泰文堂、1984年。
- 山田, 寂雀 著、瑞穂区郷土史跡研究会 編『瑞穂区の歴史』愛知県郷土資料刊行会〈名古屋区史シリーズ7〉、1985年。ISBN 4871610357。
- 水野時二/監修 著、瑞穂区制施行50周年記念事業実行委員会 編『瑞穂区誌:区制施行50周年記念』名古屋市瑞穂区役所、1994年。全国書誌番号:94043882。
- 名古屋市教育委員会 編『名古屋の史跡と文化財』(第3版)名古屋市教育委員会、1998年。全国書誌番号:20062355。
- 前田栄作、水野鉱造『尾張名所図会 絵解き散歩』(増補版)風媒社、2013年。ISBN 9784833101561。
- 杉野, 尚夫 著、瑞穂区郷土史跡研究会 編『名古屋地名ものがたり』風媒社、2017年。ISBN 9784833101714。
外部リンク
[編集]座標: 北緯35度07分00.7秒 東経136度55分48.2秒 / 北緯35.116861度 東経136.930056度