下野原新田村
しものはらしんでんむら 下野原新田村 | |
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現在の扶桑町高雄南新田 | |
廃止日 | 1878年 |
廃止理由 |
合併 |
現在の自治体 | 扶桑町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 丹羽郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
282[1]人 (1800年代初め[1]) |
下野原新田村役場 | |
所在地 | 愛知県 |
ウィキプロジェクト |
下野原新田村(しものはらしんでんむら)は、愛知県丹羽郡にかつてあった村(町村制施行前の村)。
歴史
[編集]1672年(寛文12年)に完成した『寛文村々覚書』には「下野原新田」の名称はなく、当地域は下野村の中に含まれている。1841年(天保12年)の『天保村絵図』には「下野原新田一円御蔵入」と書かれ、下野村とは別に村絵図が作成され、庄屋、組頭なども下野村とは別人である。また、1849年(嘉永2年)頃に書かれた『下野原新田南組之覚』には「柱主和平」とあることなどから、下野原新田は下野村の枝郷であったことが分かる。下野原新田は1650年(慶安3年)に木津用水が完成して以後、新田開発が進み、1682年(天和2年)に新田となり、1727年(享保12年)に検地が行われていることから、この頃から下野村の枝郷として独立していったものと推定される。下野原新田の絵図には「見取所、見取場、見取、何々見取」と記された所が十数か所ある。これは開墾後新田として検地を受けても、新田並の収穫が得られないので毎年検地を受け、その収穫量によって「見取米」を収めていたしるしである。
現在の下野原新田は、国道41号線から眺めると一面の水田地帯である。京が堀、八筬田、天神前田、津くだなど、天保時代に付けられた地名が残っている。
沿革
[編集]地理
[編集]『天保村絵図』を見ると、西側には南へ木津用水が流れ、東には橋爪方面より郷瀬川が東から南へと、村を挟むように流れ、その間に耕地がある。神明橋を渡ると、東と西へ幾条もの道が開けている。中央の安穏寺橋が下野原新田と橋爪村を結んでいる。人家の多くは木津用水の西側と、木津用水沿いに多く、やや離れて郷東あたりから、道塚のあたりに人が住んでいたようである。用水沿いに下野村神明と下野原氏神が祭られ、その隅に弁天境内がある。安穏寺橋の袂に観音堂境内があり、その隣には安穏寺境内と記されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『扶桑町史』、扶桑町、1998年、第四章近世、282 - 283頁。