不老倉鉱山
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不老倉鉱山 | |
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不老倉鉱山跡の堰堤 | |
所在地 | |
所在地 | 鹿角郡十和田町(現:鹿角市) |
都道府県 | 秋田県 |
国 | 日本 |
座標 | 北緯40度16分27秒 東経140度56分32秒 / 北緯40.27428054度 東経140.94215299度座標: 北緯40度16分27秒 東経140度56分32秒 / 北緯40.27428054度 東経140.94215299度 |
生産 | |
産出物 | 銅 |
歴史 | |
開山 | 天和年間 |
閉山 | 1964年 |
所有者 | |
企業 | 古河本店 ⇒古河鉱業会社 ⇒古河合名会社 ⇒古河鉱業株式会社 |
取得時期 | 1887年(古河による取得) |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
不老倉鉱山(ふろうくらこうざん)とは、秋田県鹿角郡十和田町(現:鹿角市)にあった鉱山である。
概要
[編集]不老倉鉱山は、鹿角市大湯から安久谷川沿いに東に進み、折戸を経由し、犬吠森の南側の道を約10km移動した、岩手県や青森県との県境地帯にある。この間、周囲の山地は急峻で鉱山は、不老倉峠や来満峠の西麓にある。
明治40年(1907年)頃には、鉱山労働者だけで3千人もの人がいて、多くの人々がこの渓流沿いに住んでいた。明治末から大正初期にかけて繁栄し、本山・地森町・寺町・来満町・稲荷町を中心に鉱山町不老倉が形成されていた。湯屋、呉服屋、質屋、床屋、旅館、自転車屋、酒屋、薬屋、料理屋、雑貨店などが軒を連ね、多くの人で賑わっていた。
不老倉分校は明治18年(1885年)4月に創立された。明治32年(1899年)4月に尋常小学校になる。大正6年(1917年)の児童数は600名ほどであった。しかし、昭和24年(1949年)5月に廃校になった。
不老倉鉱山の文献や資料は豊富で、藩政時代については『鹿角市史・第2巻上』に詳細に記載されている。また、明治期のことについては『秋田県庁史料』がある。明治時代の鉱産量については『明治鉱業史・鉱山編』と古川鉱業株式会社の『創業100年史』が正確である。盛況時の鉱山集落の状況には『不老倉鉱山誌』(平成12年・2000年)があり、これは、数多くの写真を掲載した書籍である。
歴史
[編集]- 天和年間(1681-1683年)に発見された。当時は狼倉(おいぬくら)鉱山と呼ばれていた。
- 1794年以降は御留山となっている。
- 明治20年(1887年):古河市兵衛の経営になった。
- 明治37年(1904年):南に隣接する細地鉱山を三菱合資会社から譲り受け、併せて稼業された。
- 明治38年(1905年):銅山として日本の重要な鉱山に指定される。
- 明治40年(1907年)頃:最盛期を迎えた。鉱石は牛や馬の背によって運搬していたが、小坂鉱山との間にケーブルが通じ、1日80トンもの鉱石を送った。また、細地鉱山との間に大通洞が完成し、坑内電車で結ばれた。
- 昭和17年(1942年)10月:鉱業関係者の多くの期待のもと、帝国鉱業開発によって鉱山は再開されるが、発展するまでには至らなかった。
- 昭和29年(1954年):古河鉱業のもと鉱山は再開され出鉱をみる。
- 昭和39年(1964年):休山となった。
- 昭和48年(1975年):鉱山公害対策防止工事が実施され、現在は堰堤が残るのみになっている。
参考文献
[編集]- 斎藤實則『あきた鉱山盛衰記』秋田魁新報、2005年 ISBN 4-87020-242-5