並木五瓶
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初世 並木五瓶
[編集]1747年(延享4年) - 1808年(文化5年)2月2日[1]。五八・吾八・呉八・五兵衛と名乗り、1794年(寛政6年)以降は五瓶と称した[1]。別号は浅草堂・並木舎[1]。大坂道修町の役木戸和泉屋に生まれ、並木正三に入門した(辰岡万作・並木十助に入門したとも)[1]。道頓堀の浜芝居に出勤した後、1772年(安永元年)11月、大坂角の芝居で大芝居の作者、1774年(安永3年)11月、京都早雲座で立作者となるが、1776年(安永5年)11月に角の芝居に戻った[1]。1794年(寛政6年)、三代目澤村宗十郎の招聘で江戸都座に下り、1801年(享和元年)11月には宗十郎の遺児源之助を擁して市村座に移る[1]。
初代尾上菊五郎、初代嵐雛助、四代市川團蔵、五代目松本幸四郎を主役とした作品を手がけた[1]。上方では複雑で知的構想に富んだ時代物、江戸では情味豊かな世話物に傑作が多く、上方の写実合理性を江戸歌舞伎に融和させた点が高く評価される[1]。
代表作
二世 並木五瓶
[編集]初世篠田金治(1768年(明和5年) - 1819年(文政2年))の後名[1]。実家は武家。
代表作
- 長唄『遅桜手爾葉七字』(橋弁慶)
三世 並木五瓶
[編集]1789年(寛政元年)- 1855年(安政2年)10月14日、別号並木舎[1]。篠田惣六、二代目篠田金次と名乗った。初世篠田金治の門人[1]。1833年(天保4年)11月、森田座で三世並木五瓶を襲名[1]。享年76歳。深川霊岸寺中正覚院に葬る。法名は得法直覚信士[2]。
代表作
- 『勧進帳』
四世 並木五瓶
[編集]三世の子、1829年(文政12年)– 1901年(明治34年)。芝居台帳の蒐集家として知られる。立作者にはならなかった。篠田全治、三代目篠田金治、並木五柳と名乗った。