中原助之
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中原 助之(なかはら すけゆき、嘉永2年5月1日(1849年6月20日) - 明治19年(1886年)9月23日)は、日本の武士(吉敷毛利家家臣)、官吏。幼名を寿之助といい、長じて後も近所の人は「寿之助様」と呼び、親戚の長老たちは「ジュノさん」と愛称した。
詩人中原中也の実祖父。
経歴
[編集]吉敷毛利家の家臣で「新家中原家」の5代目・中原周助、小藤の長男として生まれる。父周助は吉敷毛利家家臣粟屋与一左衛門の次男として生まれ、「新家中原家」の4代目韋甫仲佩が福岡に没した文政10年(1827年)に中原家の養子となって入家し、家督を継いだ。周助は中原家の家職である礼式をもって吉敷御殿に勤仕し、同時に憲章館で礼式を教授した。
吉敷毛利家で小姓をつとめ、傍ら郷校憲章館で学んだ。
上京して英語を学び、明治9年(1876年)工部省に就職する。鉄道局在職中は通訳、翻訳などの仕事を担当した。明治19年(1886年)9月23日、横浜の鉄道官舎の近く近藤病院で亡くなる。法名寛応院諦道義範居士。
家族・親族
[編集]中原家
[編集]- 中原家は代々吉敷毛利家の家臣だった。「中原五族」の一つとして「新家中原家」とよばれた。「新家中原家」は「本宗中原家」の3代目で分かれた「田中中原家」からさらに5代目で分かれた中原喜兵衛介之を祖とする。初代中原喜兵衛介之は「田中中原家」4代目中原太郎兵衛の次男として生まれた。兄孫右衛門が「田中中原家」を嗣いで間もなく初代となって「新家中原家」を設け、大慈院殿(吉敷毛利家の毛利元直)に仕えて礼式をつかさどった。喜兵衛は宝暦10年(1760年)小笠原流の免許皆伝をうけた。以後「新家中原家」は明治維新まで礼式の家だった。[1]
- 父・周助(吉敷毛利家家臣粟屋与一左衛門の次男、中原家の養子)
- 母・小藤(中村仲助の次女)
- 弟・政熊、清四郎、資一(吉敷毛利家家臣中村源六の養子となる)
- 妻・スエ(吉敷毛利家家臣小野勝治の次女、旧毛利萩本藩士で税務署長・引頭祐一の後妻)
- 長女・曻
- 次女・フク(軍医野村謙助に嫁す)
- 長男・大助
参考文献
[編集]- 中原思郎 『兄中原中也と祖先たち』(審美社) 1970年
関連項目
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ 中原思郎『兄中原中也と祖先たち』