中山城 (出羽国)
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中山城 (山形県) | |
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城郭構造 | 山城 |
築城主 | 中山弥太郎 |
築城年 | 永禄・元亀年間(1558年~1572年) |
主な改修者 | 蒲生郷可・横田旨俊 |
主な城主 | 中山氏、伊達氏、蒲生氏、横田氏(上杉氏) |
遺構 | 土塁、堀、石垣 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯38度07分35.2秒 東経140度12分43.9秒 / 北緯38.126444度 東経140.212194度座標: 北緯38度07分35.2秒 東経140度12分43.9秒 / 北緯38.126444度 東経140.212194度 |
地図 |
中山城(なかやまじょう)は、出羽国置賜郡および村山郡(山形県上山市中山[1])にあった日本の城(山城)。
概要
[編集]永禄~元亀年間(1558年~1572年頃)、米沢城主伊達輝宗が最上家に対する最前線基地として、家臣の中山氏中山弥太郎に命じて築城。城山(標高344メートル)の山頂から山腹にかけて築かれた。江戸時代には米沢藩五支城[2]の一に数えられて重臣が藩境の防備に当たった[3]。城下の街道は物資の移動や民衆の行楽、出羽三山の講などで多くの往来があり中山宿が形成された。
歴史
[編集]- 1558年~1572年頃(永禄~元亀年間) - 伊達輝宗の家臣中山弥太郎が築城
- 1578年頃 - 小国盛俊が城主
- 1590年 - 伊達氏が岩出山に転封となり、会津の蒲生氏郷の家臣である蒲生郷可が城主となる
- 1598年 - 上杉景勝が会津に入封し、家臣の横田旨俊が城主となる
- 1600年 - 慶長出羽合戦のなかで「物見山の合戦」が行われた
- 合戦後に廃城となり、城の麓には御役陣屋(代官所)が新たに設置され、明治3年に廃止となるまで中山地区の統治を行ったとされる。
遺構・復元施設
[編集]中山小学校跡地となっていたが、徐々に城山として整備されつつある。中山城の縄張りは置賜・村山にまたがり奥羽屈指の規模と伝わる[4]。現在でも中山宿では古い建物が点在し、旧宿場町の風情を残す町並みが続いている。
遺構と標示物
[編集]- 登城口に「中山城跡」石碑
- 堀と土塁
- 二の丸虎口の屈曲路
- 本丸跡 - 「天守山大神」と「植林記念」の石碑が置かれる。
- 天守台の石垣
支城
[編集]- 上ノ山楯 - 平坦な頂部を主郭とし、西から東南にかけて、狭小な階段状帯曲輪で幾重にも取り囲んだ館。