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中島豊後守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中島豊後守(なかしま ぶんごのかみ、生没年不詳)は、戦国時代武将は不詳。織田氏に仕えた。

初め犬山城織田信清の家老として、小口城主を務める。信清の敵対により信長が永禄4年(1561年)6月小口城を攻めると、これを撃退[1]。しかし、信長が間近に小牧山城を築くと、城を明け渡して犬山城に退散する[2]。その後、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の和田定利とともに信長方の兵を引き入れ[3]、信清は甲斐に逃亡した。

以後は信長に仕え、永禄12年(1569年)の大河内城の戦い[4]元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻め[5]天正2年(1574年)には織田信忠に従い長島攻めに参加する[6]が、和田はこの戦いで討ち死に[7]し、中島豊後守も以後史料に登場しなくなる。同戦いで豊後守の次に交名がある中島勝太は、子で継嗣との推測がある[8][9]

脚注

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  1. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「お久地惣構へ破りの事」
  2. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「二宮山御こしあるべきの事」
  3. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「犬山両おとな御忠節の事」
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」
  5. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻四 「大田口合戦の事」
  6. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」
  7. ^ 寛政重修諸家譜
  8. ^ 「中島豊後守」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、313頁。ISBN 9784642014571 
  9. ^ 「中島勝太」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、313頁。ISBN 9784642014571