中川久教
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中川久教像(個人蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 寛政12年7月1日(1800年8月20日) |
死没 | 天保11年9月28日(1840年10月23日) |
改名 | 悌之丞(幼名)、井伊直教、中川久教 |
別名 | 久通 |
戒名 | 大鑑院 |
墓所 | 大分県竹田市城北町の碧雲寺 |
官位 | 従五位下・修理大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 豊後岡藩主 |
氏族 | 井伊氏→中川氏 |
父母 |
父:井伊直中、母:関口氏 養父:中川久貴 |
兄弟 | 井伊直清、穠姫、井伊直亮、知、井伊中顕、充、秩、久教、内藤政成、芳、松平勝権、新野親良、井伊直元、横地義之、内藤政優、井伊直弼、内藤政義ら |
妻 | 正室:中川久貴の娘・絢 |
子 | 養子:岡部長和正室、栄子、久昭 |
中川 久教(なかがわ ひさのり)は、豊後国岡藩の第11代藩主。井伊直弼の兄にあたる。
生涯
[編集]寛政12年(1800年)7月1日、近江彦根藩主・井伊直中の7男として生まれる。文化12年(1815年)1月29日、岡藩第10代藩主・中川久貴と正室・満の娘・絢の婿養子となる。同年6月1日、養父久貴の隠居で家督を継いだ。同年9月5日、将軍徳川家斉に拝謁した。同年12月16日には従五位下、修理大夫に叙任する。文化13年4月21日、初めてお国入りする許可を得る。
文化14年(1817年)から幕命による手伝い普請をはじめ、文政6年(1823年)の大旱魃などにより藩財政が困窮した。このため、文政7年(1824年)から倹約令を出して財政再建に努めるが、文政11年(1828年)、天保3年(1832年)、天保6年(1835年)、天保7年(1836年)なども旱魃や風雨による被害に悩まされ、財政は悪化の一途をたどっている。
天保11年(1840年)9月28日に死去した。享年41。跡を婿養子の久昭が継いだ。
系譜
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