内藤政成
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和2年2月6日(1802年3月9日) |
死没 | 万延元年3月30日(1860年4月20日) |
改名 | 昌之進(幼名)、政成、晃堂(号) |
戒名 | 潤徳院殿香誉道鉄義山大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の光台院 |
官位 | 従五位下兵部少輔、山城守、摂津守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 三河挙母藩主 |
氏族 | 井伊氏→内藤氏 |
父母 |
井伊直中、勅使河原氏娘・八千女 内藤政峻 |
兄弟 |
井伊直清、穠姫、井伊直亮、鋭三郎、 亀五郎、知、井伊中顕、充、秩、 中川久教、政成、芳、松平勝権、 新野親良、井伊直元、横地義之、政優、 井伊直弼、政義ら |
妻 |
内藤政峻長女・甲子 万、志津、久弥、初、津麻 |
子 |
政正、政又、政和、政就、政共、 内藤政優養女、鶴子ら 増子、政優 |
内藤 政成(ないとう まさしげ)は、江戸時代後期の大名。三河国挙母藩4代藩主。官位は従五位下・兵部少輔、山城守、摂津守。挙母藩内藤家8代。井伊直弼の実兄。
生涯
[編集]享和2年(1802年)2月6日、近江国彦根藩主・井伊直中の八男として誕生。文化9年(1812年)11月22日、3代藩主・内藤政峻の養子となり、文化10年(1813年)2月27日の政峻の隠居により家督を継いだ。直後の5月には、藩財政再建を目指して5ヵ年の倹約令を出した。しかし文化12年(1815年)4月、倹約令を3ヵ年の緩める代わりに、家臣の家禄削減を行ない、さらに自らの藩庁を藩校に移すなどして経費節減に努めた。文政元年(1818年)にオランダ軍制を採用している。文政3年(1820年)1月15日には藩政改革派の竹村梅斎によって、専横の振る舞いがあった津村吉徳が暗殺されている。
文政4年(1821年)7月には諸費倹約の藩法である25条を制定し、文政5年(1822年)にはさらなる家禄削減を行なった。文政9年(1826年)には自らの衣食住の節減や生活費用の切り詰めを行なっている。しかし天候不順や矢作川の洪水などの天災が相次ぎ、改革に効果はほとんど得られず、失意に落ちた政成は文政13年(1830年)9月20日、実弟の政優を養子に迎え、家督を譲って隠居した。ただし実弟を養子に迎えた理由は、養子の際の持参金目的で、この持参金は挙母藩の借財整理に当てられている。
後に晃堂と号した。桜田門外の変で暗殺された弟・井伊直弼の後を追うように、万延元年(1860年)3月30日に死去した。享年59。
十二男の内藤政共は廃藩置県後に養子として旧挙母藩主家を相続(挙母藩内藤家当主としては12代目)、後に子爵に叙せられた。
系譜
[編集]父母
正室
- 正室:内藤甲子 ー 内藤政峻の長女
側室
- 万
- 志津
- 久弥
- 初(宇野氏)
- 津麻(木村氏)
子女
養子、養女