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中川重春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中川重春
なかがわ しげはる
生年月日 1890年6月16日
出生地 日本の旗秋田県
没年月日 (1963-11-05) 1963年11月5日(73歳没)
出身校 早稲田大学専門部政治経済科
前職 海運業
親族 吉田金忠(甥)

当選回数 4回
在任期間 1936年2月20日 - 1947年3月31日

当選回数 1回
在任期間 1954年 - 1958年

当選回数 2回
在任期間 1947年 - 1955年3月30日


南秋田郡議会議員

その他の職歴
船川港町議会議員
( - )
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中川 重治(なかがわ しげはる、1890年明治23年)6月16日[1] - 1963年昭和38年)11月5日[2])は、日本政治家衆議院議員、初代(旧)男鹿市[注 1]

来歴・人物

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秋田県出身。旧制秋田中学校を中退[3][注 2]。中退後は早稲田大学専門部政治経済科に学び[注 3]樺太庁嘱託となる[1]

その後、帰郷し海運業を営み、中川汽船、船川電気などを創業し、各社長に就任[4]。羽後銀行(現・北都銀行)取締役、中川合資会社、東北木材興業各社長[2]。この他に船川港信用販売購買利用組合長、船川港漁業組合長などを務めた[4][2]

政治面では船川港町議、南秋田郡議、秋田県議を歴任し[2]1936年第19回衆議院議員総選挙で秋田1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選。以来連続4期務める。1942年翼賛選挙では非推薦で立候補して当選した。この間、1937年から1946年まで船川港町長を務めた[5]。その後、第1次吉田内閣逓信政務次官を務めた。1947年第23回衆議院議員総選挙には公職追放に該当するため立候補しなかった(追放時は民主党[3][6][7][8][9][注 4][注 5]

1950年追放解除[3]1954年に男鹿市が発足すると、初代(旧)男鹿市長に就任し、1期務めた。1959年海事功労者として藍綬褒章を受章した[10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の男鹿市は、2005年に旧若美町との新設合併によって発足しており、新設合併前に存在した(旧)男鹿市の初代市長に当たる。
  2. ^ 『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』307頁は「卒業」。
  3. ^ 『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』307頁には「早稲田大学政治経済学部に学んだ。(中略)明治四十四年(1911年)九月に卒業した。」と記載。
  4. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛船川港町」。
  5. ^ 『日本の歴代市長』第1巻、308頁には「船川町長に推され、六月当選を果たした。」記載されているが、『男鹿市史』と『秋田百科大事典』の船川町長の項には別人の氏名が記載されてある。

出典

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  1. ^ a b 『日本の歴代市長』第1巻、308頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』440頁。
  3. ^ a b c 秋田県立秋田高等学校同窓会 中川重春 男鹿が生んだ英傑
  4. ^ a b 『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』308頁。
  5. ^ 『男鹿市史』本編、302頁、男鹿市役所、1974年。
  6. ^ 『朝日新聞』1947年4月7日1面。
  7. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、402頁。NDLJP:1276156 
  8. ^ 『男鹿市史』本編.302頁。
  9. ^ 『秋田百科大事典』.147頁。
  10. ^ 『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』306頁。

参考文献

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  • 『男鹿市史』本編.男鹿市役所、1974年
  • 『秋田百科大事典』秋田魁新報社1981年
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
  • 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ2003年
  • 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年。