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中村登

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかむら のぼる
中村 登
中村 登
キネマ旬報社『キネマ旬報』430号(1967)より
本名 同じ
生年月日 (1913-08-04) 1913年8月4日
没年月日 (1981-05-20) 1981年5月20日(67歳没)
出生地 日本の旗 日本東京市下谷区上根岸(現・東京都台東区根岸
死没地 日本の旗
職業 映画監督
活動期間 1941年 - 1981年
活動内容 1936年松竹大船撮影所(第1期)入社
1941年:『生活とリズム』で監督昇格
1951年:『我が家は楽し
1963年:『古都
1966年:『紀ノ川 花の巻・文緒の巻』
1967年:『智恵子抄
1974年:『三婆
受賞
紫綬褒章
1979年
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中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981年5月20日[1])は、東京府東京市下谷区上根岸(現東京都台東区根岸)出身の映画監督[1]

人物

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歌舞伎作者榎本虎彦の次男として誕生[2]。父と死別後、母は清元の家元と再婚[2]花柳界に育つ。1936年東京帝国大学文学部英文科を卒業後[1]松竹蒲田から移転し間もない松竹大船撮影所(第1期)に助監督として入社[2]斎藤寅次郎島津保次郎吉村公三郎に師事[1]1941年文化映画『生活とリズム』で監督デビュー[1]。戦後、オールスター映画『我が家は楽し』(1951年)が出世作となる[3]

1960年代に入り、『紀ノ川』などの文芸大作に手腕を見せ、松竹大船を支える巨匠として活躍した[4]。『古都』、『智恵子抄』で2度のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた[5]。1979年、紫綬褒章受章[4]。1981年、日中合作映画『未完の対局』の準備中に、ガンのため死去[2]

端正かつ鮮やかな作風は「映画の教科書」と評されている[4]

監督作品

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我が家は楽し』(1951年)
』(1952年)
紀ノ川』(1966年)

脚注

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  1. ^ a b c d e 中村登 キネマ旬報WEB 2023年12月7日閲覧。
  2. ^ a b c d スクエアイベント「父、中村登を語る」(ゲスト:中村好夫さん) TOKYO FILMeX 2023年12月7日閲覧。
  3. ^ 我が家は楽し 松竹 2023年12月7日閲覧。
  4. ^ a b c 【神保町シアター】岡田茉莉子、岩下志麻、倍賞千恵子… 女優の都・松竹で “女性映画” の巨匠と称された映画監督・中村登の作品を5週間特集上映! 7月29日(土)より 小学館 2023年12月7日閲覧。
  5. ^ 中村登監督生誕100年特集上映で息子が語る巨匠との思い出 映画.com 2023年12月7日閲覧。
  6. ^ このタイトルにより、川本三郎は『君美わしく 戦後日本映画女優讃』(文藝春秋、のち文春文庫)を書いた。

参考文献

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  • 川本三郎筒井清忠『日本映画 隠れた名作 昭和30年代前後』(中公選書、2014年、ISBN 978-4-12-110018-4

外部リンク

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