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土砂降り

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土砂降り』(どしゃぶり)は、1952年昭和27年)に北条秀司が著し、新派が初演した日本の戯曲であり[1]、同作を原作として1957年(昭和32年)に中村登が監督し、松竹大船撮影所が製作、松竹が配給して公開した日本の長篇劇映画である[2]。映画は、当時の「映画倫理管理委員会」(新映倫、現在の映画倫理委員会)は同作を成人映画に指定し、18歳未満の鑑賞を制限した[2]

略歴・概要

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北条秀司が執筆した本作は、初演は1952年(昭和27年)、東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座4-12-15)の歌舞伎座で初演、同年10月から行われた「第7回芸術祭」では、同年11月に日本橋浜町明治座で上演された[1]。その5年後の1957年(昭和32年)、松竹が映画化して、公開されている[2]

戯曲が刊行されたのは、初演の7年後の1959年(昭和34年)、『北条秀司作品集』(演劇出版社)への収録による[3]

ビブリオグラフィ

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国立国会図書館の蔵書による一覧である[3]

  • 『北条秀司作品集』、演劇出版社、1959年
  • 『北条秀司戯曲選集 8 紙屋治兵衛』、青蛙房、1962年12月25日

映画

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土砂降り
監督 中村登
脚本 椎名利夫
中村登
原作 北条秀司
製作 企画 桑田良太郎
出演者 佐田啓二
岡田茉莉子
音楽 武満徹
撮影 長岡博之
照明 小泉喜代司
編集 浜村義康
製作会社 松竹大船撮影所
配給 日本の旗 松竹
公開 日本の旗 1957年6月11日
上映時間 105分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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土砂降り』(どしゃぶり)は、北条秀司の同名の戯曲を原作として、1957年(昭和32年)に中村登が監督し、松竹大船撮影所が製作、松竹が配給して公開した日本の長篇劇映画である[2]。当時の「映画倫理管理委員会」(新映倫、現在の映画倫理委員会)は同作を成人映画に指定し、18歳未満の鑑賞を制限した[2]

本作を企画した桑田良太郎は、1930年代 - 1940年代の期間、政岡憲三の政岡映画製作所、松竹動画研究所で、アニメーション映画の作画・動画を手がけた人物であり、動画マン時代のおもな作品として、政岡が監督した『くもとちゅうりっぷ』(1943年)がある[4]

あらすじ

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以下は映画のあらすじである[2]。戯曲のあらすじとは異なる。

東京都荒川区南千住の線路沿いにある、いわゆる連れ込み宿「ことぶき旅館」の娘で、役所に勤める松子(岡田茉莉子)は、同僚の須藤(佐田啓二)との結婚話が進んでいた。しかし、須藤の母(高橋とよ)が、松子の家庭の事情を知り、大反対の末破談となった。松子の母・阿部たね(沢村貞子)には、松子のほか、大学生の竹之助(田浦正巳)、高校生の梅代(桑野みゆき)の3人の子があったが、それは、週に1度家に来る大久保和吉(山村聡)という男の子であり、たねはその妾であった。やがて須藤は見合い結婚をし、松子は絶望のあまり家出した。

2年が経過し、松子は、神戸元町にいた。キャバレーのダンサーとしての日々。そんなある夜、店の客として、偶然、須藤が現れる。須藤は役所での汚職の罪から、逃亡してきたのであった。松子は須藤を抱き、二度と離さないと言い、自らのアパートの部屋に匿うのだった。しかし須藤は、実母に手紙を送り、松子が離さないので帰れないと書く。須藤の母は、松子の母の許に怒鳴り込む。

そのころ、松子の弟の竹之助、妹の梅代は、日曜日に街で「父」が正妻の子らを連れている姿を目撃してしまう。その夜、突然の土砂降り。須藤を連れて帰ってきた松子は、母から例の手紙の話を聞き、暗然となる。その夜、松子は須藤と無理心中に果てる。

梅代と竹之助は、「父」に母と別れるよう迫る。娘・松子と、「旦那」の大久保和吉を失った阿部たねは、旅館を畳んで前向きに生きることを、残った梅代と竹之助たちに語るのだった。

キャスト

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スタッフ

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作品データ

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脚注

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  1. ^ a b 『毎日年鑑 1954』、p.296-297.
  2. ^ a b c d e f g 土砂降り、日本映画情報システム、文化庁、2012年6月20日閲覧。
  3. ^ a b 北条秀司 土砂降り国立国会図書館、2012年6月20日閲覧。
  4. ^ 桑田良太郎日本映画データベース、2012年6月20日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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