中臣宮地烏摩侶
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中臣宮地 烏摩侶(なかとみのみやどころ の おまろ、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。名は烏摩呂とも記される。姓は連。冠位は不明。
出自
[編集]中臣宮地(宮処)氏は中臣氏の一族とされる天神系氏族[1]。宮地(宮処)の呼称は、和泉国にあった宮処の地名[2]に由来し、具体的には珍努宮の所在地(現在の大阪府泉佐野市上之郷中村)とされている[3]。また、讃岐国山田郡宮所郷を発祥とする説もある[4]。
『新撰姓氏録』には、宮処朝臣(大中臣朝臣同祖、天児屋命之後也)[5]、中臣宮処連(大中臣同祖)[1]があり、同族である可能性が高い[3]。氏人に天平元年(729年)に長屋王の謀叛を密告し、のち斬殺された中臣宮処東人がいる。
経歴
[編集]推古天皇16年(608年)日本に渡来した隋使の裴世清が難波津に停泊した際に、大河内糠手・船王平とともに朝廷から派遣されて掌客(まろうとのつかさ=接待役)を務めた[6]。
推古天皇20年(612年)天皇の母親である堅塩媛を欽明天皇の陵に改葬した際に、第三番目に大臣・蘇我馬子のかわりに誄を述べ、第四番目を述べた境部摩理勢とともに賞讃されている[7]。