珍努宮
珍努宮(ちぬのみや)または和泉宮(いずみのみや)は、元正天皇時代の離宮。
概要
[編集]元正天皇が避寒用に河内国和泉郡に営んだもので、名称はクロダイ(黒鯛)の異称である「チヌ(茅渟)」の海に面した地域名であったという。
『続日本紀』巻第七によると、霊亀2年3月(716年)に、「河内国の和泉・日根両郡を割き珍努宮に供せしむ」[1]、同年4月に「大鳥・和泉・日根三郡を割き和泉監を置く」[2]とある。翌霊亀3年2月15日(717年、この年の11月に養老と改元)、元正天皇は難波宮から和泉宮に行幸し[3]、同月18日、和泉監の堅部使主石前の位を一階昇進され、技術者や大少毅労役の人夫達に身分に応じて物を授けたという[4]。
『続紀』巻第八によると、養老3年(719年)の2月11日にも和泉宮に行幸しており[5]、その後、同巻第十三によると、天平12年(740年)に和泉監は河内国に併合されてしまうが[6]、宮自体は存続しており、同巻第十五では、聖武天皇も天平16年2月10日(744年)に行幸している[7]。同年7月と10月に元正上皇が「智努離宮」に行幸したともあり、10月の際には竹原井離宮にも立ち寄っている[8][9]。
その所在地については、現在の大阪府和泉市府中町に比定する説があるが、明確な遺構は検出されていない。一方で近年の発掘調査では、和泉市葛の葉町の大園遺跡において、奈良時代の特殊遺構として巨大刳抜井戸・カニヤ塚古墳周濠の改変(苑地化か)・トイレ遺構が認められており、同遺跡を珍努宮(和泉宮)に比定する説が浮上している[10]。
天平9年度(737年)の「和泉監正税帳」には、和泉監の正(長官)が従者3人を連れ、2日の間「和泉宮御田苅稲収稲」にあたったことが記されている。
なお、允恭天皇にも衣通姫のために建てた「茅渟宮」があるが[11]、こちらは和泉郡ではなく日根郡、現在の大阪府泉佐野市上之郷に比定されている。
脚注
[編集]- ^ 『続日本紀』元正天皇 霊亀2年3月27日条
- ^ 『続日本紀』元正天皇 霊亀2年4月19日条
- ^ 『続日本紀』元正天皇 霊亀3年2月15日条
- ^ 『続日本紀』元正天皇 霊亀3年2月18日条
- ^ 『続日本紀』元正天皇 養老3年2月11日条
- ^ 『続日本紀』聖武天皇 天平12年8月20日条
- ^ 『続日本紀』聖武天皇 天平16年2月10日条
- ^ 『続日本紀』聖武天皇 天平16年7月2日条
- ^ 『続日本紀』聖武天皇 天平16年10月11日条
- ^ 「元正天皇の和泉宮 -奈良時代の大園遺跡-」『信太山地域の歴史と生活(和泉市の歴史4 地域叙述編)』和泉市史編さん委員会編、和泉市・ぎょうせい、2015年、pp. 88-98。
- ^ 『日本書紀』允恭天皇8年2月条、9年2月条、8月条、10月条、10年正月条、11年3月4日条
参考文献
[編集]- 『角川第二版日本史辞典』p60、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『岩波日本史辞典』p63、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『続日本紀』2・3 新日本古典文学大系13・14 岩波書店、1990年・1992年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)・(中)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『日本書紀』(二)岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年